テレプシコーラ・第二部29話を読んだ。
ネタバレしないように書くが、うわーんうわーん。涙。というかしみじみ。あーーー。そうだったのかーーーー・。なんにせよよかったーーーー。もう感動である。あと次回が だというが、その まで、なぞを謎のまま残しておく手腕というかもう、たまらん。
本当に ったね。
ところで話かわって。そのテレプシコーラを読む買うために本屋に久しぶりにいったら、本棚に「山田のこと」(上條淳士)があった。危うく買いそうになったが。おしとどめた。
思うに。
「TO−Y」を連載していたころのサンデーが、一番幸せだったのではないかい。1985〜1987。
たしかにサンデーの最高部数は1983であるが、ゆうきまさみが究極超人あ〜るを連載したのは1985〜1987であるし、うる星やつらが終わったのが1987である。つまり1987には大きな区切りがきていたのだ。
強引で個人的な印象だけの話だがまだ続く。
まあ1987というのはマガジンに追い抜かれた年なわけだが。
当時オレは東京で高校生だった。
そんなこた^どうでもいい。
とにかくラブコメがどっかひとつ引いてしまったのだ。
んでもってTO−Yと上條のことである。
山田というキャラがいまでもすごく鮮やかなのはどうしてだろう。わからない。女子で、「バンドのまわりにいる子」。バンドという現象がある以上、それは9割まで「男子のバンド」であり、そのまわりには必ず「一人のマスコット的女子」がいるのである。
バンドに限らない。運動部の女子マネージャー。どうして女子運動部には男子まねーじゃーがいないのかね?そこが男女の非対称性である。
マスコットに甘んじるという言葉は、事態に真に迫っていないやつの言い分である。
マスコットになるのは才能しかないのである。努力にはなんの意味もない。
才能というのは好かれる才能である。
好かれるには理由はいらないのである。
つまり山田はなんの努力もしないでただ山田であるだけでその座を手に入れたのである。
奇遇なことに同じ本屋で、いま再刊している「かってに改蔵」4巻をみた。表紙は山田さん。さんをつけないと山田さんにならないし切り離せない。好きなたべものやきそばパン。記号としての美人で有名な山田さん。山田さんは貧乏であるがとくに努力はしていない。
サンデーは幸せだったときがあったが、いまは本当に末期である、末期という言い方が悪いかもしれないが、消滅したとて誰も困らない雑誌である、マジで、そう思う。惰性。
出版界と新聞紙界というのは一番惰性に流れてるところだう。コンビニがそのビジネスの上でサンデーは必要ないと判断すればそこが終わりである。
多分そのすぐ手前まできている。
いかん、なぜトーイが面白かったのかぜんぜん書いていない。