いい気分なのでさっき車できいていた真綾さんの新しいアルバムについて。
坂本真綾。
アーチストである。
オレの好きな声優=歌手のもう一人であるゆかりんと比べると、ゆかりんは「アイドル」である。
さて何が違うのでしょうね。
オレの考えるところを述べる。
坂本真綾さんは、多分、自分の中にある「なにか、外に出したくて出たくて仕方がなくてもうどうしようもない」ものに気がついて、それをなんとか形にしたいという気持ちに気づいてしまった人である。
じゃ、ゆかりんは?
田村ゆかりさんは、「気持ちが気持ちにこたえるということが、とても大切で暖かいことであることに気がついてそのことを重点的にやる方法のひとつとして歌をうたってライブをやるという形式があったことに気づかされた」・って感じがする。
もちろんこれはオレの個人的なぜんぜん的はずれなでたらめ感想であるから気にしなくていい。
いつも思うこととして、アイドルというのが、何をしている人かということについて。
「好き」という気持ちの交流。というか交易。贈与。
ファンが好きの気持ちをお金に変えてアイドルに贈与するのである。
金がたまたまCDやグッズやライブチケットのカタチをとっているだけだ。
それは事実として身も蓋も無いことであるが、まあいいじゃんべつに。
供儀の供物である。
アーチストの人は、多分、なにも、金銭的な利益とか、仕事とか、なにも関係なくても、たった一人でも、なにかが内から沸いてくるのである。それは他人との関係性を捨象していてさえも、とめられない。
アイドルは一人では絶対になりたたない(一人でやってるのはただの痛い人である)。
アイドルの構成要素はアイドル本人とファンと、あと「アイドルを飾り立てる人」である。
AKBでいえば秋元さん、娘。ならつんく。
Buono!に岩下岩里さんが詞を書いてくれるのは本当にうれしい。そのことを誰かが決めている、プロデューサー、誰だろう、もちろん本人たちではない。
多分なにかがアーチストとして発展してくるとセルフプロデュースになってくるのではないか。
例・YUKIさん。
形式はいくらでもどういうカタチでもありえる。うまくいけばいい。
坂本さんに戻る。さあ。
この7thアルバムは曲ごとにプロデューサーが違うという形式(Wiokipedia)。まだ全部聴いてないけどカーステで大音量で聴いていてたまらんくなったのは6曲目そして7曲目という流れ。ゼロとイチ、みずうみ。厚みのありすぎるサウンド。厚みというか、重ねというか、暖かい襞を幾重にも薄くやわらかく重ねていった感触の上に真綾さんのさざなみのようなボーカルがのっていく。
いつもなんちゅーか「精神的」「精神世界的」な印象をつくっていた感じを感じていたけれどそのことは誰がどういう曲をつくっても坂本真綾という人が歌うことで共通性をつくりだされている感じがする。
いい意味で何を歌ってもいっしょ。
あれこれちょっと言葉としてどうなの。
それに対してたぶん田村ゆかりさんという人は「この世にはありえない声」なのである。という言葉は朝日新聞のラテ欄からかりてきたのだが。
ゆかりんの声はたしかに「アニメ声の高さのひびきの尋常でない」声だ。まあそれ以外にいくらでも声があるのだが。
そのことが「アニメという『非日常世界』をつくりだすことに適切である」というのが朝日の論評だった。
ゆかりんのアルバムを聴いていていつもおもうのは「カッチリしてるなあ」ということである。
声が。
いつもちゃんとはっきりした輪郭でそこに歌がある。
なんというか、叙情性とかを排除してるんじゃないかなという感想である。
濃淡を、(極端に言うと)つけない。
それはたとえば、アニメの主題歌ED歌などにとっては必須条件ではないのか。
それをやっているゆかりんは、そこでは「職人」である。需要にこたえる職人であり、どんなリクエストであってもそこに結果を作り上げる職人。歌も。
その歌はリリックもメロディーも自分ではないスタッフのつくったものだけど需要にこたえるのが仕事であるからそれを行う。
答えるというのは、応答であり、レスポンスであり、仕事は需要があってこその供給。ないときにはしない。
とか書いてみた。おもしろかった。もうちょっと整理すべきだけど。