どうしたものか

名古屋大阪中野サンプラザと3ヶ所参加してオレのツアーは終わった。坂本真綾YCCMツアー。
中野サンプラザの特徴、狭い。ライヴハウス的。
理屈。
理屈っぽいオッサンは嫌われるというタイトルを考えた。理屈っぽい娘はどうだろうか。
まあ確かに、これほどMCの多いライブはさだまさし的でもある。
 
ライブを見に行くときに、その人を好きなのはいいとしても、考え全てに賛同する必要はない、とわかっていても冷静に話を聞けないのがライブの場。
 
優等生の委員長。
それをつきつめると、本当の、他人を助けたい、言葉だけじゃない真実に辿りつける、と、羽川さんあたりには教えて貰ったわけだが。
 
真綾さんなどはまさに委員長で、そして、正論を言うので、皆様がそうしようと一旦思う。
 
だがライブの客なんて我が儘にして忘れっぽい。
 
いや、余人はいざしらず、オレの話だ。
3会場でほとんど変わらぬ話をずっと聞いているうちに、疑問が芽生えてきた。これは本当に商業音楽のライブなのだろうか。
なにか別のものなのではないだろうか。
 
音楽は素晴らしい。心に響く。
 
話がオレの心に入ってこない、違和感、集合としての「東京」など実在しないのではないか、「ふるさと東京」という言葉が響くのは本当にごく少ない数の人間だけではないのか、本当にその仙台からのリスナーのメールは実在するのか、どうしてその話はたまたま曲の内容とクロスしているのか、どうして名古屋大阪中野で全てセットリストが同一なのか、
そしてハロプロで無数の台本MCを聞いてきたオレがどうしてたった3会場のMCが同一台本上で展開されてることにここまで疑問を大きくしているのか。
 
台本MCというのはそもそも出演者のお話スキルが当意即妙に展開されない場合の手段ではないのか。 
もちろん今回の真綾ツアーがメッセージ性の色の付けすぎでやらざるを得ない状態でやってるから内容を整理して語るために台本が必要であることはわかる。あと、ハシゴする客のことはそもそも想定していないことも。一期一会。
 
オレがなにか感じてるむわむわ感は、ライブを楽しみたいこころは災害について考えることとは別にしたいと思っていたら、このツアーでは切り離せないものになっていたということだ。
そんなに強くないそんなに弱くない。
オレが日常をおくりたいのはオレが日常をおくりたいからだ。他人をあとで救ったり支援したりするためのものじゃない。

 
まあ欲しいものと欲しくないものが両方袋に入っていたということだ。
決して、批判しているつもりはないが、多分真綾ファンからみたらオレみたいなのはライブぬくるなといいたいだろう。
ちょと考える。