よる3

今日考えてみたいのはこれだった、
 
「札幌・マンション2遺体:生活保護申請前に急死 姉、職や妹の施設探し」
http://d.hatena.ne.jp/i-haruka/20120126
 (「遥香の日記」様 より)
 
もちろん意見はいろいろあっていいしオレの考える意見が他の人と異なっても、基本的に上下も善悪もないものと思っており。その上で。
 
 行政はどこまで何をすればいいのか。
 
 たとえば、日本国憲法第25条は
すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
と書かれている。
これは国民の権利だという理由で、最低限度の生活なるものが営めなくなった場合に、国が保障を行うことになっている。
 
 理論的な背景はともかく、これが、なんとなく腑に落ちないのである。
 
 行政がそれを行う場合には細かい規定が必要であり、つまりルールだ。担当職員の裁量でそれを行うのは不公平の極みである。しかし「誰がその保障を必要としているか」を細かく決めれば決めるほど、かえって「本当に必要な人のところに届かない」ケースが多発する。
 パラドキシカルである。
 
 そういう場合に、行政の行うことは本当にミニマムであるべきだとする考えもまた選択肢の一つとしてあるべきであると思う。一方に「おせっかいなくらいの細かいことをする行政」があり、もう一方に「本当に最低限のことしかしない行政」があるとする。
 
 おせっかいな行政というのはサービスマインドにあふれた行政である。やるべきとされていることの最大限を行う。そしてこの行政は、もしコミュニティのウオッチ機能(仮にそういう呼び方をする)が機能していないならばその機能の代行も行う。死にそうな人がいないか、困ってる人がいないか、とにかく「生活、生存、その危機に瀕している人はいないか、いたらそこにずんずん乗り込んでいく、そして公共のちから、はやくいえば税金から成り立つ力で、助けてあげる。税金からなる金の力で可能となるサービスをそこに投入する」。
 もちろんここで多少のプライヴァシーはなぎ倒される、なぜならばきめ細かくすべて困ってる可能性のある人間を助けるためには楯となっているものは倒さないといけないからである。
 どのくらい困っているか(どのくらいの収入があるか、どのくらいの身体能力精神能力があるか)は、行政に筒抜けとなる。全てを調べるのだ。知らなければ助けられない。
 
 (思い出し:たとえば介護保険での「認定調査」だって一種これに似た洗いだし調査であり、能力検定でもあるのである。認知機能だってそこに入るのである。そして、どのくらいの程度、この人を『助ける』べきなのかその量の経済をキメルのである) 
 
 最低限のことしかしない行政を考える。この行政は本当に冷たい。何もしない。税金を徴収して、その税金は何に使われるのか?行政の最低限機能とは何か?たとえば土木のように大きい金額を要するものは行政でなければできない。壊れた道路を治しましょう。
 この行政の行う「社会保障、福祉」の姿は、基本的に人間の生きることそのものは人間各自がやってほしいというものである。もちろん医療保険介護保険の制度は存在している。どこの病院にかかろうと、どのような介護保険サービスをうけようと、それはやってくれていい。
 しかし収入がない、あるいは極端に少ない、あるいは労働して対価を得る仕事ができない条件を持っている、その理由は・・・となったときに、理由については「あくまでその人間本人または代理人からの申請がないと、助けられない」という態度をとる。
 行政から進んで助けにいくということは絶対にしない。待っているだけである。その理由は、プライヴァシーを犯すからではなく、コストを最低限にするためである。
 そのかわり、本人あるいは代理人からの申請については書類上の審査だけで行う(対面面談は行わない、査定にあたる行為は極力、行政官の個人的裁量に左右されない体制をとる)。
  
 というような仮定の考えをつくってみた。
 
 ここでは
「行政の行うべき仕事の大きさについて」
「個人のプライヴァシーの尊重される範囲について」
「生きるか死ぬかについての決定が行われる場所について」
 
 考えてみている。つまり複数の価値判断がこみいっている。なにが最も優先されることなのか。本当はこれは社会の中で多くの議論にさらされた後に暫定的に決定されるようなことである。世の流れの中で入れ替わったりすり変わったりもする価値のことである。
 
 本当はこのような「極端なあり方」をしている行政は日本では存在しない、存在しているのは、ここで挙げてみた両極端のものの間に位置している、中途半端で悪いところの寄せ集めであるような行政であり、また生活保護の利用者にしても、本当に困っている人と、本当には困っていないが金だけほしい人、のような様々な善悪の入り乱れたようなモザイク状の存在がある。両者を同じようなルール同じような態度で測るわけにはいかないのである。しかし行政にルールを導入すればひとつのルールで測らないといけないし、同じルールではなく違うルールで測ると行政官の恣意的裁量がはじまるのである。
 
 基本的に社会に金をばらまく場面ではこのような矛盾がどこでも存在する。その中で、何が本当にまもるべき価値(生命の価値、公平の価値、倫理的な善の価値)なのか、誰かが決めないといけないし、税金をあつめてつくった公共のパワーが個々人の救済のために使われてもいいと決めた時点で誰をどのくらい助けるのかは長さ重さを決めていかないといけない。
 
 山と山の間の谷が、山に向かって深く切れこんでいるような田舎では、谷の一番奥に住むような偏屈ものを助けにいくのは長い道のりを走らないといけない、遠いところまで走っていってきめこまかい公共の助けを世に満たそうとすればガソリン代だって高くかかる。
 
 本当はオレは申請を基準にすべきだと思う。本人または代理人の。
 自分で助けてくれの声を上げることができず代理人もいないケース(札幌のケース)については、仕方ないと切りすてても仕方ないと思う。個人的には。
 その理由は、そこまでのきめこまかい深いところまではいりこむことのできるような行政の力というものは、オレにとっては怖いものでしかなく、お節介行政というのは容易に別の種類の悪の力に変貌できると思うからだ。そのデメリットは計り知れない。
 オレは行政というのは性悪説でとらえるべきものと思っているのである。
 だから最低限のことだけやってくれと思っている。すくなくとも行政はコミュニティの代行なんてできないだろうしするべきでないと思っているのである。

 
参考文献
http://digitalword.seesaa.net/article/114153843.html
 [憲法25条の生存権に基づく『生活保護(relief aid)・生活保護法』:水際作戦の問題・生活保護の原理原則]
(「Keyword Project+Psychology」様 より)
 
http://www3.plala.or.jp/hkyoji/weblocal/ch7.htm
入門 地方財政 第7章 地方交付税
(「財政学の館」様 より)