よる

見た映画「星を追う子ども」。
 
 佐久市、市民講座みたいなもので新海監督をまねいて、アニメ上映と、講演である。超豪華といっていい。しかもタダ。 
 
 それを見て聴いてから車を走らせて小牧まできた。4時半ごろ出て、ほとんど休憩なしで8時20くらいには小牧についた。正直疲れた。車中はゆかり姫の曲の復習ということでかけっぱなし。多幸感ありあり。アルバムが体になじんでいるので何をきいてもいい気持ち。
 まあゆかり姫の本番は明日なので明日。
 
 映画について。ついこないだ「秒速5センチメートル」をはじめて見て衝撃をうけ、今日は今日でこの「星を追う子ども」で衝撃をうけた。じじばば、こども、幼児、小学生。なんというか市民たちはどのようにこのアニメを見たのだろうか。
 いやわかるはずだ。わかる。
 
 いまここでオレはいやらしい優越感を醸し出している。オレはアニメずっと見続けてるからわかるけどきみたちにわかる?みたいな。
 こういう「根拠のない優越感」みたいのはけっこう最低だと思う。
 しかしあるものはあるので仕方ない。
 
 されど。
 一番わかっていないのはオレかもしれない。
 かえって、「いきてかえりつ」みたいなことをあらかじめ思いながら見ていて。類型にはめようとすることでそれを分かった気になる態度。
 「正当化」したがる動物。
 
 いやいや。そういうのいいから映画そのものについて語ろうよ。はい。 
 映画は面白かったです。どこが面白かったか?
 
 じつは上映後の講演で、監督が、この映画は「明日菜が、自分は『さびしい』んだと、気付くこと」が、中心である、と言っていた。監督が言うのだから間違いない。
 こういうことは珍しい。皆がいろいろ「ああでもないこうでもない」と言うことはあるが。
 
 まあWikipediaにも書いてあるけどさ。でもこれが中心だとは書いてないよ。
 
 オレが思ったことは、SFと日本の少女との接点である。異世界人の少年に恋して・・だと思ったらそれは違うよってことでもある。いや恋してたけど。いや勘違いかもしれないけど。
 SFだが、少女はひどい目にあう。あやうく体を器として差し出してそのまま中身をのっとられるところだった。危ない。
 
 いろいろショッキングである。
 どうして異世界人と話がつうじるのかとか。
 
 なんにせよアニメとは監督の見た夢みたいなもんだと思えばいいのだ。やっぱりオレは、よくわかっていないのである。もうちょっと面白さについて考えよう。