なので、もう、記憶を呼びかえすことはやめて、全く違うことを書いてみる。
「本を読む」ことができる才能というものがあるのだと思う。
というのは。本を。読む。ことを、スキルとして得ていること、が、けっこう現代においては稀有であるのかもしれないと思ったのだ。
もちろん前時代的なのかもしれないが。
人間は何をもって「知識」を得るのだろうか。いわゆる「口伝」だろうか。それとも書かれた文言を読み解くことによってだろうか。あるいは読み聞かせだろうか。
わからん。
わからんが。いまの世の中で、「読む」能力の衰退はおそらくは如実であるのだろう。これだけ「出版不況」があり、誰ももう本なんて読まない。みたいな現実があるのだとすれば。
電子書籍なんてものは誰も読んでいない(ごく少数だけ誰かが読んでおる)のだとすれば。
書籍なるものを読もうとする意思
が、どこかにあるわけだが。まとまった文言である。
オレが毎日ふれているついった−においては多くの言葉文字が消費され費やされ、そして消えていくわけだが、さてはたしてそれらは、どのような「結果」を齎してくれるわけだか。
おそらくは「水が海へと流れていく」にすぎない。
消えていくし、循環にまぎれて見えなくなっていくのだろう。
書籍という形でなにか意思を形にしてのこしたいと思った先人たちが、遺した。
いつでもそれを見たい知りたい読みたいよみあかしたいと思ったこどもが、それを見ることができる。読むことができる。知ることができる。
しった子供はそれを誰かに伝えたくなるし、伝播。
チリワイン(白)は美味しい。うまい。美味だ。酔いもまわる。