よる2

最近は本あまり読まなくなってきてて再読が多い。本を増やすのが怖いのである。捨てる労苦を考えてしまうのである。
ま、捨てられないのは、もう二度と読めないのが怖いのではなく、がらんとしてそこで何か捨てなければよかったという後悔の発生する可能性が怖いのである。

まあよくわからん。

「走ることについて語るときに僕の語ること」を再読。くどい本、くどい文章。村上春樹伊集院光のふたりこそ、妻がいるのに独身であるかのような一人行動が印象的な人である。実際の本人がそうでないのはわかっている。
村上春樹は実際のじじいになってきたのだろう。どういう文章をこれから書くのか気になる。
伊集院光は一体いつまで深夜放送をやってくれるだろうか。リスナーも多様化してるしなあ。でもdvdの実験的企画が番組に繋がったりして活躍はお見事である。普通のお笑いがmcへといくくらいしかないなかで、すごい。
さてテーマは、年取っていくこととどうやって充実してるかのことである。
走るというのはいいテーマだ。伊集院だって走っている。
しかし走るは仕事ではない。仕事は、きついが、それでもなにかである。部品として欠かすことのできないなにかである。
じじいが仕事しないのがおかしいのであって、この辺の田舎の農業じじいどもは死ぬまで田畑にでている。それはいい。
オレは田畑に出る商売じゃないので、しかも妻もいないので、なにかを死ぬまでやらないといかんのである。まじめに。あるいはきがるに。
多くのじじいのしごとは、それがよいものであれば受け入れられ、良くないものであるときに社会から「もう止めとけ」と言われ仕事を奪われるのであろう。
仕事を奪われ、免許証を奪われ、尊厳を奪われるのであろう。
そうならないようにするというよりも、どこまでよい仕事を引き続けられるかが多分ポイントだ。仕事がきついのは他人からの信用を保ち続けないといけないことだ。credit.
それを頼んでも大丈夫という保証。
そうでなければ自分だけが食べる野菜を作って自分で食っていればいいのであるよ。