よる

で。
一応利益確定した。去年一年かけて得た利益と同じくらい(80%)くらいの利益をこの一週間の間に得たわけである。濡れ手に粟。 
 まあ株式市場なんてこんなもんだ。こういう利益があるので安心して明日から東京に遊びにいけるのである。
 
 だがこれを失うのはいけないねえ。まあオレは現物しかしないからなんとかなるか。
 と思っていてもけしてゆめゆめ危険探知を失うことなかれ。
 
たまこまーけっとについて店長MK2氏が書いてた「たまこまよくわからん」
http://lkhjkljkljdkljl.hatenablog.com/entry/2013/01/25/033008
 ので、
オレの感想を書いてみたい。
 
ちょっと思い出したのはついこないだまでやってた「音楽でコーラスで声楽で5人の高校生男女が湘南で青春したりしてたり教頭にさからってみたりしてたやつ」ですね。
タイトルが思い出せないんですけど。
 あれなんでしたっけ。 
 
 まあそれで。コミュニティの崩壊によせて。
 
 アニメで描かれるのは「現実をリアリスティックに描くことではなく、いかに現実を理想化して、いらないほしくない部分を削ぎ落として、みせたい世界あってほしい世界であるようになっているものを、なめらかに、写すか」だと思っている。オレは。
 描くといったがここでは狭義にしてみて、つまり絵のことである。
 絵以外に何の要素があるかというと声優さんの声である。
 声優さんの声がアニメに何をもたらしているかというと「カオスであり、感情であり、しかもそれは爆発である。あらゆる不条理、ひっかかるもの、ほっておけないもの、注目をあつめてしまうもの、どうしようもないものが声にのって画面に現れる」のが声優さんの役割である。
 そして。
 絵と声とが、画面の上で幸せな、あるいは不幸な、あるいは正負の入り混じったなんにせよ混交をみせてあらわれたものを消費するのがわれわれアニメを見てるだけの人である。
 
 世界には不条理とか皮肉とか楽屋オチというものがあって、そのようなものをあらわすのに最適なプラットホームがニコニコであり、gdgd妖精sである。あの稚拙な3D−CGに乗せた皮肉たっぷりの3人の女性声優さんたちの出す声こそがシニカルさだけをみせたいという目的にかなっているからアレは面白いのだと思う。
 
 思い出した。TARI TARIだ。アレが見せたい世界というのはいくつかの障害があったりいくつかの条件としての不幸とかいくつかの自分の思い通りにならない状況があってなお若いものはがんばってはりきってむちゃくちゃしてまで、青春のパワーを発揮することで他人や大人などをまきこんで、なにか状況を変えてみたり、自分について思っていた不幸であるという自己認識を変えてみたり、とにかくなにか変化を自分たち自身の力でもたらすことによって、ああ、なんか成長したんじゃんうちら!というちょっとした快をさわやかな風にのせて味わうのが目的である。
 
 さて。そのような目的などを達成するためには現実をいくつかねじまげて、わかりやすい形に変換したり、道筋をうまくしたり、登場すべきでないやつをおさえておいたりしなくてはならない。リアリティの審級の設定。
 
 さてたまこまーけっと
 2話までしか見ていないが。
 
 ファンシー商店街、しゃべる鶏、かわいい姉妹、店を手伝うけなげな態度、もちぞうとの間のうまらない距離、現実の商店街にモデルをとったかなり現実に近い商店街。
 
 幸せにすごしている世界がある。商店街がそこそこにぎわっていてだからこそ寄り合いも成立していてバレンタイン企画もやってみようという気合があって、店を経営する大人たちの子供である学生たちも健全ですこやかで、そこには今のところ未来への不安はあまりみられず、けんかせず、恋が成就しないことに煩悶するも少々で。 
 
 つまり現実からさまざまなものをかなり削ぎおとしてマイナスしている、マイナス面をマイナスしている、ネガティブ要素を排除している。
 
 現実の『商店街』で苦闘していないところなど、全国ほとんど存在しない。いくら大都市でもだ。京都でもそうだと思う。コンビニとショッピングモールではない個人商店の集まりである商店街で、平成25年においてこの先の消費税増税による買い控えや、子供の減少や、シャッター化や、それらいくらでも不安材料は山積している。
 
 そんななかでけんかしつつもわいわいしている商店街の人間関係が濃密で皆が互いに避けようともしていないようなそんな理想化されたコミュニティ。
 
 それを気持ちわるいと感じれば気持ち悪いだろうし、ありえないとおもえばありえない。
 
 だがしかしけいおん!のような温度の高校生が現実にいるかいないか、いてもいいじゃんと思えばいてもいいのであり、そう思えば大ヒット。
 ゆるゆりのような「じっさいありえない」レベルまでもっていってしまうと、これは別の世界のフィクションになってしまう。
 けいおん!と、たまこに、共通していえるのは、「ひょっとしたら現実にいてもいいじゃん、あってもいいじゃん」という願いがそこに反映してしまうかもしれないくらいのレベルを保っているところじゃないかなー。
 なにしろ願いだから、もし願ってしまうと、それは祈りに変わってしまうかもしれないのだへんしーん。へんちんポコイダー。オチになっていない。ポコイダーだって少年の願いから生まれたと思うけど。いや欲望や欲求からかもしれないなあ。