あさ

そうなんだよ。オレの興味関心は急速に外にむかっている。いわゆる「設備があってお客様のおこしを待つ」ような医療機関がダメになっていくことはよくわかる。「おこし」というのはつまり外来であって、外来から入院になるわけで。
 
そういう人はもういないわけだ。
 
いるのは「病気じゃないけど、じいちゃんばあちゃんの面倒みらんねえから、預かってほしい」人と、「家でごろごろしてて未病だけどすぐにこれはダメになっていくね」の爺婆と、まあ、あとは維持を必要とする難病または維持期の療養時期の人、認知症の人、そんくらいか。そういう人は医療機関になじまないし医療機関でも病名つけられないし期限はあるし退院せまるし。
 
 という基本をみた上で、日本の「医療・福祉」はどんどんとんかくなんでもいいから在宅へという流れへ加速しつつある ようだ。サービス提供者は、どうすればペイできるかを考えているから、厚労省がそういう仕組みつくっていてこれからもそうするよと言えばそうするさ。当然。
 
 在宅では無理、とかつて思われていたような人も、どんどん在宅にいくし、高度医療と思われていたものも福祉系施設へとシフトしていく。いまは未だ「吸引」についてのハードルがあるが、これだって、ぜったいそのうちシフトして、医療職じゃなくてはだめですなんてナンセンスになっていく。
 
 さきに、「いるのは・・せまるし。」で書いた人というのは、ざまざまではあるけれど、まとめてしまうと「ケアの必要である人だが、医療的ケアについて医療部門ではペイしない人」である。福祉部門では介護保険でケアしてペイすると思われる。おそらく。工夫すれば。まあ難病の人は特定疾患で医療の方がいいんでしょうけども。中には「難病認定されてない」人もいるしねえ。数は少ないが捨てていい問題ではない。まあでもそこまでオレが考えるとオレはキャパが足りないので、もうちょっとオレならなにができるかの中で考察する。
 
 なんでオレがグループホームとか言い出したか、で言うと、つまりさっきのようなどうもならん人たちを見ていて、これらの人に対して「機能回復改善」とかお題目唱えるのがイヤんなってしもうた、からだ。そういう人には「維持」であり「生活」であり、毎日なんとなく、どうにかなっているという感覚がいるんだと思う。それを家族が与えられるのであればいいがいまの現状をみるに家族にその機能を期待するのは無理であり。みな必死ではたらいて少ない銭を稼ぐから。共働きなんぞ当たり前である、専業主婦なんて優雅な職業は廃されたのだ。この9割貧民の世界では。
 そして介護保険という制度がそこにある以上、生活をまるごと見るにはそういう住居としての施設になるわけで、たぶんデイサービスにはオレはなじまないのである。あれはどうも「お世話、世話焼き、日本の小学校のみんな主義」みたいなのが入りすぎな気がするからだ。
 ちょっと喩えはわるいんだが、ポニョにおいての老人ホームで老人ばばあどもが皆ずらりとロッキングチェアみたいなのに坐っているが、あれは「日中はベッドから出てきて体を起していましょう」みたいな原則で言って、合っているわけである。すくなくとも寝ていない。何かをしている。
 
 
 サンデー14号感想。
 銀の匙
 ああそうか。こないだ、「なぜ八軒くんがいっちゃんの家の離農のところ見にいくのかわからない」と思っていたが、こういうことだったのね。やっとわかった。これは面白い。不謹慎に面白い。それにしても八軒くんはいつのまにか御影さんに信用されているのね・・・すてきだわ・・・
 大変ですよね家のプレッシャーって。
 でも言わないと後悔するしぜったいよくないって思ったんですよね。
 そんなときに勇気をくれる人がとなりにいてくれるってとても素敵だわ。これは皮肉ではなく。本当に。