いろいろうろうろ。
マックにいって、クォーターパウンダーホワイトチェダーを食ってきた。うまいが、チーズがダブルでもいい。オニオンは良い出来。
読書。やっとコータリさんの「一度死んでみましたが」をよみはじめる。
もちろんいろんな闘病記があるし高次脳機能障害の人の手記とかもあるのだが、当事者の書く文として、文を書く専門家の、その人のエッセイである、文から無力感が伝わってくる。どうしてこんなことになっちまったんかなあという感じの感である。
それでも生きてかえってきたことにもちろん意味はある、周囲にとって。
信毎の昨日の紙面で、身近な人の死の経験についての読者の反応がたくさんのっている特集があった。
その中に「夜と霧」の話があった。フランケル。
妻をなくした男。喪失感にうちのめされそうだ。しかし。「もし、あなたが死んで奥さんが生き残ったならば、奥さんはどんな気持ちになっていたでしょうか?」と問われる。男は、「おそらく。。。今の私と同じような気持ちになっていたでしょう」と。
妻にそんな気持ちを味あわせなかった、という点だけでもあなたが生き残ったことには意義がある、と、語られる。無意味ではない。と。罪悪でもない。と。
参考
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/77f992060ac9e1167fedb646ffb1cdc0
「思考の部屋」様より。
しかしまあ死にかけたところから生き還る人が多くなって、そのために特別なケアそして言葉かけが必要になっている。生命には意義があるということをあの手この手で説得しないといけない。
無意味ではないが、そんなものは本人が本人の手でみつければいいのでは?と思う人もいるだろう。
しかしそういう冷たい自己責任みたいな話をすると、それじゃこの先の世界ではダメだといわれる。