ひる

どうも。
 
実家にて父母の新年挨拶まわりリストを尋ねると、
結婚においての仲人をしてくれた人が(やっと)亡くなったというのでもう行かなくてもよくなった、とのことで。
 ここで一旦縁が切れたのである。
 
 夢想するが、オレも実家と縁が切れて、孤立無援にて縁ない正月を自分の部屋で迎えるという正月を過ごしてみたいですよ。
 
 同居する気はすっかりなくなったうえに、
 もはや盆暮れに帰省するのも煩わしい。
 
 と、本音を予め書いておく。
 
 本音があってもその通りには行動できないことがありそれが不満でもある。
 
 家父長制とか、事実死んでいるのにそれを体現して遺産のように蓑かぶって生き続けている昭和一桁世代やら10〜19年生まれ世代がしつこく生き残っている、それが日本を悪くしたままで手のつけようがない。老人ゴミ屋敷である。モノを捨てないと整理も開始できないのにしてない
捨てない。家は狭くなるばかりだ。
 死に方もうまくないし。
 健康なままでいきなり死ぬなんてのは自殺しかないが、自殺は周囲にダメージを遺してしまうのである。あそこの家は自殺者を出したんですよ。いわゆる穢れの概念。良くないもの、良くないこと。
 かといって持病を抱え長年通院し入院し出たり入ったりしつつ医療費を食い散らかす社会の迷惑もいかん。
 
 渡辺京二先生の本、読みはじめて、「社会の福祉化、人権化、衛生化」という言葉に行きあたる。高度に管理された社会、差別を許さず、高度に健康管理して不健康でいる自由を奪い、老人の独居を許さず、施設収容管理を行う。
 ムラ社会自治機能が衰退したのは事実だが、こんな高度管理は、我々が「自分のしたいことをしたいようにする自己管理権」を大きく侵害している。
 
 ひどい時代になったものである。
 
 ほとんどすべての問題は、横にいる他人、(隣人、同僚、家族)他人について、人は人であるから好きに勝手にやっていればいい、という離すこと、が出来ていないことに端緒がある。
 つまり。支配、命令、コントロールしたいと欲望し、そうでないと怒り、クレーマーとなり、暴れる。
 
 病院のような人権化された管理施設もそうだが、企業、家庭もそうなっているような気がする。
 
 なるべくそういう恐るべき他人から遠くにありたいものだ。
 
 ちゃんと「地域社会の一員としての顔」で接してくれる他人ならいいんだけど。ルールとテリトリーの尊重。