ごご

なんかつかれた。緊張が抜けない。首が重い。うーわんわん。
 
昼、カレーバイキング。これはうまい・・うまいよ・・・・。満腹。加減して食ったつもりだったが。ナンも焼きたてだしさ・・すげえな。
週アスかった。さゆが表紙の。おおきくなって美人になったさゆみさんでした。
休み恒例でダンボールや燃えるゴミなどを処理場へ。
ジム(公営)、見学にいくが、イマイチ。イマイチなところに毎回銭を払うのがなんかいやで、やめる。せっかくnexus7で自分撮りした写真でL判の証明写真までつくってみたけど。でもいい経験。L判、いまやデジカメデータで30円でコンビニプリントできる時代。いいものだ。
図書館で朝日新聞論壇時評(3月)コピってくる。「ひとりで生きる 新しい幸福の形はあるか」。
みなそれぞれに生きており、幸福になる権利をもっているが、現代日本は「自分でやれ」という社会である。つめたい社会。
単身世帯がいまや最も数の多い世帯になった。
つまり在宅だけど単身なのである。
一人で生きることは、精神的にも、肉体的にも、管理を適切に行っている必要がある。自己への配慮。しかしひとは一人ですべてできるわけがないのである。
 家族、あるいは家族にかわるもの、という言い方をすると、かえって限定がついてしまう。
 家族的なものでなくても、ぜんぜんいいと思うのだ。
 職場の人、バイト先の人、あいさつする人、人間でなくても動物、環境。
 たまたま「オチビサン」の最終回とかも読んで。鎌倉に移住して、むかしの人が鎌倉を歴史的もんを保存するような都市にしてくれて、それを感謝しつつ、自然環境と雰囲気にめぐまれ、そして癒されて人間が回復する、という。もの。こと。土地。
 認知症というのが現代に特有の病なのかどうかしらないが、「他の、まわりの人が、彼彼女に対して、同じ人間で仲間なんだという気持ちで接していれば、認知症の進行をくいとめることができる」、それがはたしてまわりの人ができているのか、家族ができているのか。
 介護のために休職したかったができなくて転職した人の話もすごかった。危篤になったので仕事をぬけだそうとしたら「今からいっても間に合わない」とかいう上司がいるんだねえ。人間失格とはこのことだ。さいわい死ななかったからいいようなものの。その危篤から生き残った父はヘルパーによる介護をうけることになったが、いさかいを起こしてヘルパーを首にしてしまう、何年かたってやっとそのときのことを父が話してくれた、「ものを投げるように渡された」「たのんだらイヤな顔をした」。
 ひとりになる、ひとりで生きるの前にいま、
 オレはそういう方々へのサービスを提供するサービス業なのでまず先にその「提供側」としての資質とか考えとか気持ちの方に頭がいってしまう。
 かように、受ける側というのも、デリケートであり、ときにはかえってひとりで好きにやって好きに死んでいくのが幸せということもある、あるんだろう。そういう話も論壇時評に出ていた。高橋源一郎の父の話だ。さいごにはひとり。都築響一「独居老人スタイル」の紹介。この本いまアマゾンだとマケプレなのね。しかもプレミアついてるよ。筑摩書房も増刷すればいいのに。不況。
 とにかく。オレの首の重さと、現代日本の「感情のいさかい」は密接に関連しているのだ。これだけまとまらない日記もめずらしいぞ。