ひる

洗濯まではすませた。
雨。
 
いつもいつも思うことだが「屍同様に」文学とかだけ読んでかろうじて生きているがそのうちお金もなくて死んじゃったという暮らしはできないものか、できないんだけど、不可能ゆえにあこがれる、誰の役にも立てず、ただの社会のゴミとしてあるだけっていう。
 朝日の書評(先週の)で吉村萬壱の「ボラード病」がとりあげられていた。あと水無田気流氏が取り上げていた「養護教諭社会学 学校文化・ジェンダー・同化」。
 リンク。
 http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2014081000005.html

 社会が悪くなっていく、周辺においてそれが見える、という環境についての考えがある。
 保健室などはとても「周辺のこぼれおちる問題」が見えるところだろうし、保健室登校という謎ワードが生まれたのはいつのことだったのだろう、現象としてそれは存在するし、
 吉村氏についても小説家としてのデビュー時においての経歴は「大阪府立佐野支援学校勤務」である。支援学校とはなにか。
 知的障害児を対象とした教育を行っているところである。
 
 周辺といえばまさに周辺。(吉村氏は既に退職している)
 
 なにかが「ノーマルとちがう」という烙印がおされてるヒトとヒトタチである。
 差別もいけないし区別もいけないといっていっしょにやったところでいっしょにやったら成り立たない。
 
 老人が増えることで老人への手当を増やしてお金を注いでいっても、そのうちに遠くない未来にまた「その老人もまた減った」という現実もくる。
 知的障害は一定の割合で必ず社会に存在する。
 肢体障害(って言葉あるの>?)と知的障害は別の概念なのだがいっしょくたにされがちなのだと思う。
 
 老人だって「認知的に正常レベルだが運動機能の障害」がある人もいれば「認知的にしょうもないレベルだが運動機能は正常」な人もいるし、その両方がそれぞれすこしずつアレな人もいる、あとは精神的にたとえば妄想や幻聴などをかかえたまま長い時をすごして老人になった人もいるし、中途でアルコール依存からぬけられなくなって治療したけど完治しない病なのでそれを抱えたままの人もいる。老人の中でいろいろいるってことをここに書いている。
 
 それと同じで若い人ヤングな人、教育をうける年齢の人にもいろいろいるんだろう。
 
 話はいつもそれていくが、あまりに現実が多様なので整理するだけで整理しきれないのも事実。休みの日くらいしかそういうことを考える時間がないような気がする。オレは日本社会の主に周辺の外側のギリギリの捨てられ棄てられてるような感じのところにある現実が気になるのである。