よる3

正解は無い。
 
がしかし。さっきまで読んでいた読書、読了。書名は書かない。なまじ著者と知り合いなのでかえって面倒だ。またよみたくなったらどっかで図書館で読めばいいのだ。そういえば今日ははじめて岩手県立図書館(アイーナの中)を見てきれいだなあ近未来だなあと感動した。ガラスかっこいい。
 
ジュンク堂で本かった。本の雑誌と、橋本治「失われた近代を求めて(2)」。
 
さっきまでの読了の感想。人間の人生はいろいろあるがべつに成功だけが人生ではなく失敗も無念も残念も人生だ。たいていが「ああ負けた」なんだろう。きっと。「幸せだった」と思える人もいるだろう。うけとめかた。
 事実のレベルではなくて「そのように受け止めている」認識のレベルである。
思い込みとも言う。
 
 ついさいきんに思い込みについて考えたばかりで、たとえばいいかんじの女子がいて、その女子との関係があるという妄想で楽しみたいと思うから、その女子については「設定」を勝手につくる。関係妄想。
 実際には女子の人には彼氏とかいるので妄想は成り立たないのであった。
 
 しかし知らない間は認知のゆがみなんぞ知ったこっちゃなくて妄想が全開である。たのしい限りである。ガソリンとかなくても全速前進できる妄想のパワー。自分にとっての都合のいいことだけで繰りひろげられる世界。まあそれを自慰と読んでも呼んでも同じことだ、自分の頭でつくった世界をつかって自分が楽しんでいるのだから。
 
 しかしそれは現実ではない。
 
 随筆で人生を振り返るのは実際には現実との折り合いをつけることなんだろう。さっき読了した本もいろいろ人から悪口を言われたことやいじめられたことや金銭のトラブルなどいろいろ書かれている冷静な筆致で。それは冷静に書くということでふりかえってかみしめているのかもしれない。
 
 なかなかできることではない。
 
 読書っていうのはそういう他人の脳内をみせてもらうことで、なかなか面とむかって会話しててもわからん部分を見せていただくのことである。ありがたや。
 
 オレもなるべく日記をWEBに書いて中身をさらけ出そうとしているがここに書けることはほんの一部でまったく隠している部分など膨大だ。グロテスクな部分や自分勝手な部分や自我水ぶくれの部分とかいろいろだ。
 
 他人からどう思われてもかまわないというのは嘘で実際には近場の人間関係に依存していきている、それがなければ生きていけないくらいのものである。
 
 まあそういうのが恩なのだが。
 恩義は返さないといけないのだがどうしたものかねえ。