よる

死について。
 
いやさ。どこにいっても、思うのだが。全国各地でいろんなマラソン大会が行われており、オレも宮古浦佐・神戸・四万十・指宿などいろいろ行っているわけだ、観光。
 そしてオレみたいな独身中年おっさん一人旅でマラソンの人もたくさんいるのである。たのしく仲間とわいわいやってるマラソンピープルもいるなかで一人組ですごす連中がたくさんいるのである。多くはおっさん。ごくたまにおばちゃんもいますけど。
 おっさんたちはそれぞれが一人で出たものを食うのである。
 マラソン後のたのしみ。今日で言うと、さんま焼いたの・鮭のチャンチャン焼き・鮭汁・鮭ごはん。おいしかったあ。あったかいし。秋はあったかいものがいい。
 それで。おっさんたちはそれぞれ散らばりながら一人食って一人で帰るのである、家へ。
 
 それでいいのか、いいのだ。
 死について。そういうことをしたりしなかったり、一人でいるのが寂しかったり、またそれをときどき忘れたり、また思い出して泣いたり、さめざめとしたり、アルコールにおぼれたり、脳細胞が死んだりして、そのうちに死んでいくわけである。
 
 どうしておっさんはいつもそうなのだろうか。
 
 まあおばちゃんが「そうではない」とはいいきれない。人、それぞれ。
 
 個人で言うとオレがおっさんで初老なのでますますそう思う。趣味は洗濯。次は料理。好き嫌いがある。
 
 ヨルタモリ宮沢りえを見るたびに、その刻まれた皺をみて、首の細さをみて、儚さについて思う。あのサンタフェ時代の、豊満よりもふくよかな、ふとましい(後の世でそういう言葉ができた)、あたたかい肉厚の布団を思う。人間もただの生物で老いる。
 セッション22で昆虫博士が出てきて語っている中でカマキリの雄が食われて交尾しながら死んでいくというときに「それでも生物の最も重要な交尾して遺伝子をのこすことは成し遂げている、交尾しながら食われるときでも生殖器はさいごまで生殖行為をつづけていくようにできている、頭から食われながらも」という内容のことを語っていた。人間もそのくらい残虐を気にしない存在だったらいいのに。