ゴミ捨て場で、不燃ごみと缶アルミスチールと緑色のびんを処理。生協で紙パックを処理。図書館に本かえす。
「ほとんど想像すらされない奇妙な生き物たちの記録」を返却。流し読みしかしていないが、記憶に残る場面はある。たとえばオウムガイの章だったと思うが、つながりが写真の歴史におよび、イギリス人の男性がかわいいお嬢さんを膝の上に抱きかかえて写っている写真がある、彼は娘の頭に手をおいているが、当時の技術では感光時間をとる必要があって彼は娘が頭を動かさないように押さえている必要があった。そして後に娘は子供のうちに命を落とし、父たる彼はその後、優しさなどを失って打ちひしがれた状態で生きた。とのエピソード。 
 
 人の死は人に影響をおよぼす。オレでさえ、短い勤務(まだ1年にも満たない)の中で関わったクライアントが死んで、それはそもそもが死期が近づいた方々がクライアントとなるという構造の中で関わっているのだが、彼ら、死んでいった人々はオレになにを遺したのか、遺したいとはまるで思っていなかったことは知っているがオレが勝手に受け取るぶんには勝手であるが、
 ほとんどなにもできない中でも何かが主観として楽になったすこし通った空気が通ったすっきりした感じなどがあれば意味があるのか。ないのか。あるのか。 
 弱さを抱えた人が拒否の意思をあらわしてさえそこに関わろうとする意図はおせっかいを通り越して迷惑ではないのか。
 公共におけるサービスの原則を振り返る必要があるのではないか。
 
 どうしても、わからないのは、オレが邪悪であって歯牙にもかけられないような他愛も無い存在であったとしても、疑問として外側から難事の当事者に関わろうとする態度においての。