あけがた

土曜の顛末。
 
特になにかあったわけではなく、現実は重く歪んで柔らかいので不定形で支えるに困難、
 
老人は肥満し生活習慣病を発症し高血圧糖尿病、動脈硬化もすぐそこよ。
老人は羸痩でサルコペニアで歩行もおぼつかなくなり寝たきり一直線で転倒骨折の巻。
 
どっちも極端なり。
 
なんでまたそういうのを医療的福祉的に支えサポートしサービスを使い生かし、ということが強迫的に行われる時代となったのか。オレが思うに家族なる人物がそういうのを扱ったり選んだり可否を判断したりの場面で「判断なんてことは面倒でそれをする主体にはなりたくない」のではなかろうか。多くの場合に人間の行う選択とは「選択しその選択を行った主体としての責任を負う   というような重たいことは回避したいので人が言うことをそのままそれでいいですくらいの簡単な回答にて形式上のことだけクリアしていく」態度ではなかろうか。
 そして別の形で言いたいことを言うのである整合性は無視。
 
 なかなかというかどうしても日本の都会でも日本の地方でも「本人の選択判断による福祉サービスの提供」は実現しないしすすまない、
 日本人の現実生活には「主体として判断する」ことがなじんでいない、
 民主主義での投票行動だってそうだ。
 
 とはいえ。・
 
 話かわって。オレはいつもスーさんのラジオを楽しくきいているのだが、土曜夜、1900から2100.残念ながら仕事は終わらずオレは職場にいたが、二名しかいなかったので堂々とスマホからラジオを流してきいてききつつ仕事していた(上司もいなかったし)、同僚は「やめる」と言いオレはさみしい感じとオアシス的な気楽な場所を失うことを残念に思った。
 どんどん同僚が、気楽に話せる同僚が少なくなっていきオレは毎日首に緊張を感じながらちゃんとしなきゃちゃんとしなくちゃであり一直線に鬱パニック休職コースである。長時間労働に身体が疲弊して目があかなくなる。今日は昼間も突然瞼が閉じて目が熱くなっておどろいた。蓄積疲労である。
 
 で。スーさんのラジオには「どうせ私なんか的愚痴とスーさんは成功していていいですねもう私たちのような負け組のことは目にも入らないんでしょうね」という拗ねた大人からのメールが、あえて紹介されていた。
 
 スーさんはそういうのをちゃんと取り上げてラジオで読むタイプである。
 
 リスナーは「負け組」を自認して、拗ねており、くだらない貧乏人であると自覚しており、しかし「スーさんはアクティブで成功してて有能でいいですねえ」という内容を誰かに言いたくてしょうがなくて「どうせこんなメールは読まれない」とまで書きつけてメールを送ってしまう。
 
 すごくよくわかる。その拗ねた気持ちが。・ 
 
 成功して有能な人は努力していて汗かいて奮闘していることもよくしっていて、それに対して自分が愚で蒙昧で成功できないための要素をオールレンジ兼ね備えていることもよく知るものである、そして変化できない。
 
 スーさんの回答は「パーソナリティとしてはおかしいかもしれないが、聴きたくなくなったら聴かなくてもいいから」であった。そして「よくわかる」であった。
 まあスーさんも七転び八転倒な人生を歩んでおられ(自覚的には)、リスナーとすごく共感できることは事実。
 
 スーさんは仕事がうまくいってなくてお金がなくて貧乏での時代のことを語る。
 
 人間だれでも「うまくいっていて成功している人を見るとどうしようもなく自分と比較してやるせない気持ちになってそれを見ていたくない気持ちになる:」のだ・
 「負けた」分を「欠けている分」を、どうにかして埋めなくてはいけない。
 
  「どうやって自分がそこから立ち直ったか?」
 比べるところに自分をもっていかない、ということしかない。比較には何の効用もない。
 
 限界まで比べる、どん底までいくと「やめないとまずい」と気がついた。
 
 自分を貶めることをしていると返す刀で自分を傷つける。
 そうだねえ。・