よる

おいこまれ。頸の重さ。メールへの反応。電話。おだて。
 
ラジオ。仕事しつつきくラジオ。車できくラジオ。本日は「カーテン」のピークだたまむすび水曜。まったく大吉氏ほどこのようなコーナーに似合う男はいない。日本一作り笑いの似合う男。というかなにが本音なのかわからん男。もちろん褒めている。 
 
オレは毎日が緊張の連続で仕事で辛い。頸が堅くなっていく。いつ、恐ろしい失策が発覚し。忘れていた失策が発覚し。気がつかなかった失策が発覚し。そして糾弾され。責任を問われるのである。責任ってこわいことばだ。責任とるなんてことはどんな行為に対しても同等に責任を取りますなんてことはできないのである。金をもってしても不可逆なことだらけだ。
 
クライアントの運命に責任をとって責任をもってことにあたり、ってそんなことはオレはできないと思う立場であるが、おそらくはオレはそういうことを公式の場で発言すると「資格はく奪」級の扱いを受けるであろう。司教審問みたいな。磔・獄門みたいな。
 
子供のころに読んでたカムイ伝のいっこいっこのコマが脳裏によみがえる。磔というのは人間を板に釘で打ち付ける行為のことだ。板でも柱でも。結局その人間は拷問によってほぼ死んでいる。死んだ人間を見せしめに見えやすくするために打ちつけているのだ。それはそのまま風雨にさらされて、萎びて、また削られていくのだった。そして風に吹かれてきえて塵になっていく、塵芥。
 ちりあくた。
 
 何の話しだったかわすれてしまう。・
 
 オレが日々生きているようでじつは死んでいるという話ではなかったか。
 
 客先で「長く生きすぎたので本当はもうちょっと前にコロっと死んでいたらよかった」みたいな話をどこでもいろいろ話すのことは仕事としてどうなのか。
 どこでもだ。 
 理想はピンコロである。理想というのは叶えられないから理想なのだ。できるわけないじゃんピンコロなんて。心筋梗塞になったとて助けられてしまうのだよ”!
 
 ちょっとずつの運動療法ちょっとずつの自主トレそれらを重ねていくしか向上への道はなく、何がその「重ねていく行為」を現実たらしめているか、それは他人からもたらされる「目標感覚」なのではなかろうか、自己管理、自己の変革、なにかにむけてなにかを毎日なにかして行為しているとそのうちに何か不可能だった実体が可能な実態に変革している。ステップを重ねたために。
 変化。 
 
 身体の変化、出来る行為の変化、筋力の変化に起居動作の変化。
 脳内の認知情報処理能力変化、短期記憶の能力の変化。 
 
 変化あるといいね、老化というのは変化と言うか「衰退」なんであるよ、静かに停滞を増していく。
 
 考える人間像。
 
 日々がおそろしく、終わってくれることの有難味を毎日かんじている。