よ2

80でもチョモランマ(エベレスト)登れると証明した三浦さんの対談を今日はとあるところで読んでたんだが、糖尿やらの生活習慣病の悪化で余命三年宣告を受けてからの復活というところがひっかかっている。そういうことは誰にでもできることと思ってはいけないのではないか。できない、とは言えないが環境というものがあり、精神の健康さというものがある。なかでも「意欲」や、「希望」は最もメンタルにとって重要なものだと思う。そして「資金・財産」がある。誰にでも平等に与えられているものではない。つまり環境要因は全人にとって均一ではない。その上にある「回復しようという意欲」が個々の人間’(老人)にとって千差万別、金がなければ生きててもしょうがないよと思っても当然。生きていたいし、回復したいという意欲は「先のことを見たい」欲から生まれるのではないか。他人との、子供や孫との関わりの無い人、コミュニティから外れてしまった人にとっては自分が死んだあとのことは無であるが、   子供や孫がいれば「係累の繁栄」は楽しみであろうし、ありうるであろう係累の繁茂(生物として)は栄華ともとらえられるであろう。  何がいいたいかというと老人にとって「回復」や「機能の向上」や「活動の拡大」が楽しみであったりモチベーションであったりするためには条件があるというこっちゃ。誰にでもそれを揃えられるわけではない、多くの日本人老人には余裕もなく逼迫だけがある。そう思って市井にでてみればいいのだ。他人の世話をする余裕などない。
 
https://www.youtube.com/watch?v=BG_i9PKLkwg
dZihan & Kamien - Freaks & Icons
  
  をききながら、
 
 「死者と生きる未来」高橋源一郎 http://politas.jp/features/8/article/452
 を読んでいた。  
 
 高橋の書く文章はいつもあけすけであり
 わかるようでわからない。
 
 橋本治と根源的にはまったく同じ。
 
 世代の問題かもしれないがたまたまそうなっている。んだと思う。
 ひょっとしたら本宮ひろ志もそうかもしれない。
 本宮が1947、橋本は1948、高橋は1950の生まれである。
 
 YJをいまだに買っているが本宮の漫画を載せているところが驚きである。やっぱいっていの読者層があるんだと思う、本宮の漫画が好きな層。
 世代ではなくなにかのテイスト。
 
 高橋源一郎は考える人ではあるがその表現は「なにも表現できない」ところから開始されている文である。絶というのか。
 橋本治は「伝わらないのは知っているが長く蛇がくねるようにつづられていくしかない」と割り切って長いものをひたすら出していく職人である。
 本宮のやっている漫画は昔も今もまったく同じでオレが本宮漫画をちゃんと読みだしたのは「やぶれかぶれ」からであるからずいぶん遅い、1980年代である。まあオレは10代でしたが。選挙というもの、世間、日本、行政制度、国とか民衆の在り方について考える時期である。
 
 考えたことを直接漫画表現として描ける力のある人だけがそのような漫画を描ける。
 
 今日ネットで見た渡辺航先生のインタビューにしてもそうだが、こころを折られることなく続けていけるのはすごいことだ。山下達郎先生にしても酒浸りの日々からよく復活されたものだ(こないだ仕事中にぬけて図書館いって土曜Beを読みにいってよかった)。
 
 それにしてもdZihan & Kamien の音楽はすげえなけっこう。まったくこころがおちつく。