ゆう

いや、もう夜だろ。暗いし。
暗いのが、休日では嫌いになっている、なんもしたくない感じになる、死を感じる。明日がくるのを喜べないからだ。「明日は何をしよう」と明日への希望や期待や意欲あれば明日を楽しみに思うだろう、しかし明日がくるのが憂鬱で「明日はこれという難儀なことをしないといけない」「明日はこれという難儀で解決方法がみつかっていないことをやらなくてはいけない」解決方法がわからないのにそれをするとは解決できない感じの今日も解決できなかった敗北をかみしめて(抱きしめて)ダワーという感じのテイストなのである言ってしまえば。「よいことをしている」とはとても思えない感じの。
 しかし「良いとは言えないのだが」「しかし」「それでも必要なことをしている」「ニーズを満たしている」「ニーズを満たすことですくなくとも社会的に意義のあることしている」と思うのであればそれはいいだろう。
 そうではないのが問題なのだ。
 つまりだから毎日が休日も平日も同じように苦しいの連続であるといえるのか。答えのないことに耐えられないというのとはちょっと違う感じだ。
むしろオレにはオレの考える考え抜くところの不足があってそれができていない(仮に他の有能な人材はそれができていると)、
 
 あるいは、昨日聞いてきた話というのは「機能回復には限度があったときに生活機能として代替、環境を設定することの徹底、方法、考え方、受け止め方の転換をも含む精神的なサポートと、もともとある「生活機能を織り込んだ上でのフィジカルメンタル両方全部含んだ予後予測」とかができないと地域では専門職を名乗ることもできないっていう話、
 
 それハードル高いわ^−^^^^。とても。
 
 他人を変えることだしなあ。
 
 医者が他人を変えることを「治療」というのだが、外科的なきったはった、薬物の選定、機械による補助、などなど、
治療なるものは判断と物理的化学的な変動。
 
 しかし心というものは残っていて、精神科医が薬物によってあるていどの精神的なぶぶん感情の乱れをコントロールすることができても、最後のところは人間は自らの「こころ」なるものを自分で持っていて自分でそれを動かす(動かしているという自覚のない部分で)、自分でしかそれはさいごにはうごかせない、人間をアル中にすることができるのは自分本人だけなのであって、家族がエネイブラーになっているとしてもそれは外からの助力としてのサポート(惡サポート)に過ぎない。
 
 とか考えた。思ったのほうがいいか。思っただけだし。
 
 思うに自分が「  できない  」(  unable )
できないできていないことを正面から自分のこととして見つめること自体がけっこうなハードさを持っている。いつもごまかしているからだ。

chiebukuro   では
  ” not ableは、できない こと、unableは、その能力が無い、不可能なこと。 違いがある。 not ableは、やりたくてもできないこと、unableは、能力が無いからできない。どう何を工夫してもできないものはできない。 ” はあl=はぁ==〜。

 ウィークネスは「できないこと」「弱み」なのであろう。
 ストレングスは「この人ならではの 他の人にはない特質」を「生かして」いることなのだろう。
  

ストレングスを見つける目がうまいのがうまいセラピストなんだとさ。それはそうだなあ。ほめ上手とはちょっと違うわなあ。   
 
 講師の先生が言っていたのは「死にかけの老人」
が「ひ孫」へ、与えた影響が、「(ひ孫が)ぼくは医療職になるよ」という決意、を齎したこと、なのだそうな。なかなかそういう影響は出来事として与えにくい。だろうて。老人を助けたいとか死にかけの人を救いたいとか、思う気持ちはあるわなあ。あるよね。