いくら「どのように生きていようとそれはその人の自由」であっても、
例えば男性日本人初老みたいな人のだいたいこのくらいの知識経験耐久性コミュニケーション能力と見込まれるものモデルがあっただろう。かつては。職業別に。
というかいつから職業が人格になったのか。
人格と職は別ではないのか。
例えば職がない引きこもりのまま40を越えた男性がいて彼は老いた両親の年金にすがって生きている。
彼は職を持たないので人格も

ない、のか。
そんなわけない。誰にでも人格はある、ただ、彼は「社会的な意味での顔」が無いのかもしれない。社会に参加していない。活動と参加。
 
いやーそういう難しい方向に話しを持っていくとたいへんになる。
 
ようは「おっさんだが、ぜんぜん社会人としてダメ」な人もいるし、オレがそうであるという話である。
 
というかいったい何をめざしているのか。
単んにオレが生きてさえいればそれでいいのであればそれでいいのである。生きてるし・
そのうち死ぬけどそれはみんな死ぬからいいのです。
 
そうでなくて「何がしたいのか」本人として主体的にしたいことが、したい、したいことをすることや
したいことをするための努力をすること、そしてその後にできた感じを味わって達成感を得ることは素晴らしいことですね。そうですね。
オレがマラソンを好きなのはそういうところなんですが)(距離がはっきりしているし、それを達成したこともまたシンプルに確実)
 
で。
 
 仕事において面倒なのは「一定の社会的な意義を達成しないとその仕事を達成したことにはならない」ということだ。そのへんがはじめの
「だいたいこのくらいの知識経験耐久性コミュニケーション能力と見込まれるものモデル」と関連する。
たとえば極端な話で言うとソフトウェアをプログラミング言語を書く打つ設計するSEさんであればそのために必要な「技術・他人と話をする力・クライアントの意図を読む・進捗を管理する」などなどが必要なのではないか(しらんけど)。
オレであればこのサービス業ではおなじように「クライアントの思っていること、不安、その解消、やりたいこと、やりたいことへのつまずき原因、できるできないの峻別、やる気管理する、勇気づけ、体調管理、環境設定」などが行われなくてはならない。知ることはコミュニケーションが適切に行われていてはじめて知ることができる。またこっちの言葉がむこうに伝わるかどうかはこっちの発信の力である。受信も発信もフルに活用できてはじめて目的なんなん達成なんなんとす。
 なんてむつかしい。
 
 農民なら楽かとかいってそうでもなかろう。農民仲間(となりの人)とうまくやっていくのも大変だ。ケチつけられたり農薬がとびちったと言われたり親切でことばをかけたのに拒否しやがったとか言われたり。
 
 なんだこの日記。この世に人格者はいるのか。それがいるのでかえってややこしい・

 午後
今日朝食はバイキングだった(ベーコンクリスプビーズとシーザードレッシングがあったのでよいサラダになった。パプリカやインゲンのせもできた。)。
昼食は「わがや」でまぜそば。というか「汁なしそば」というラーメンである。おいしい、ちょっと甘いが。味噌と唐辛子と紅生姜が混ぜ合わさった結果あまくなっている。さてそこにミニチャーシューライスと「煮干しダシスープ」がついてくるのである。大き目のマグカップで。それをそのまま飲むもよし、そばにかけてラーメンにするもよし、オレはメンを殆ど全部食ってスープも半分飲んだところでどんぶりにほうりこんだ。そのくらいのほうがいい。メンはあまり熱いとすすれない。その意味でいい感じだった。
 
 さて大相撲千秋楽をみる(西日をあびながら)