日曜の夜である。
「月曜の仕事が憂鬱なのであればその前の日曜夜はさぞかしつらいものだろう」なぜなら先にかなしくも辛いことしか待ってないからね。
どうして「他人のために」行動しようという意欲が湧くのか。いまさっきNHKのやつをみてたんだ「にっぽん紀行」”髪がつなぐ物語 〜大阪 梅田〜”、大阪は梅田に拠点をもつというNPO法人、ヘア・ドーネーション。髪寄付。
http://www.jhdac.org/
ウィッグをつくるのである、人毛で。人毛はあつめる、寄付で。女子が。うつくしい髪を切って寄付してくれる。31cm以上が基準。
とても個人的なことだがオレはいままったく弱っており、すると、なにか、目で、見て
オレが目で好むものとして。
髪は。
とてもいい。なぜならオレがハゲだからですね。剥げというのはなかなかどうして当事者としては受け入れる以外になにもないものでありまして。
だからといってウィッグがほしいというのではなくて、単に女子の髪のうつくしいことはとても最近とくに好きだ、とくに生え際のおくれ毛なんかとてもおそろしく魅力的で触りたい感じがする。
で。
NPO法人は寄付された髪をもとに18歳以下で疾病等により髪をうしなったり少なくなった人へウィッグを贈るのであった。
よい目的であればNPO法人に対しては公的な資金が降りてくるのである。そうなのか?
http://www.jnpoc.ne.jp/?page_id=211
日本NPOセンター「NPOに関するQ&A:NPOを運営していくために」
ふうむ。まあそれで。
ウィッグがあればすべて解決するわけではない、もちろん。疾病自体は多くの場合治癒しない。進まないように止めることは、出来る場合もある。薬剤。
まあなんでも誰かが労力を割いて、作業を行い、その結果としてやっと物が完成するのである。
物の場合もあるだろう。
物以外にもアイデアとか対話とかいろいろあるんだが。
人間はどのどんな人であっても合理的な推測の外にあることでも「ひょっとしたら治るかもしれない」といつも思っているようだ。もともともっている、明るい方向をめざす思考。根拠があるなしにかかわらず。というか根拠はいらないという。
どうみてもどうにもならんだろうという人のもっている「それそこが治癒して以前と同じ動作ができるようになるかもしれないなってほしいならんかなあ」という願いとか願いというより思考だなあ、
その方向で考えていればそれ絶対叶わない願いなので、どうしてもそれちょっと方向をずらしてもらえないものか。ずらしてというか、ちょっとだけ車軸をうごかして、照準が、ねえ。
他人について考えるとか他人の幸福はどういうものなんだろうとか、他人のことである、他人のことはわからん、他人ことはわからんがそれを考えるというのが仕事の内であるのであれば、仕事であればそれは仕事として追求して考えて考えていかんといかんのはわかるんだ、わかるんだけどそれを
それにオレの場合は対価が発生しているんだよ。
NPOじゃないし。
じゃないんだ。でもそれがもしNPOだったらすべて解決するというわけでもないんだ。問題は他人の苦しみや他人の幸福や他人の生活、生活をたもっていくことや維持していくことやその他もろもろの他人の人生がそこにあってそれに直でかかわることもあるしかかわらせてもらえないこともあって他人へのエンパワーメントなんてそういうことが実際に可能になるための条件は
その他人からの信頼を得られるまでになるまでの過程 (がつくられること)
なんだけども。
本当にオレがそれをしたいと思っているのかどうか。むつかしいむつかしいという前にそれをしたいとおもってそれがたとえ無給でもそれをしたいと思っているのか。