金曜日

金曜日。
 
昨夜はトイレで苦しんだ。ゲロ吐きではなくて下痢なのだが。
なんだか通常のやつよりきついやつだった、水状便が出そうででなくてもうなんか痛みがともなうじっとしていられない不快鈍痛のマッシブなやつである。おかげでいきんでもがいて疲れたのでそのあと良く眠れた。あさまで。
プリンスが57歳で死んだ。自宅’(兼ペイズリーパークスタジオ)のエレベーター内で急死。人間とつぜん死ぬ。死ぬんだなあ。なんだったのかなあ。血栓大きいのが循環器系にくると突然心臓止まるだろうしなあ。中学時代にプリンスにはとても助けられた。うたったさわいだ。MTV。ありがとうプリンス。
いまJ−WAVEでグラマラス・ライフがかかっている。グラマラス・ライフ。

昼にくう昆布握りうまい

夜には辛いナポリタン食いたいなと思っているタバスコたっぷりーかけてー

 

大根一本貰ったの

 
大根は生きている
新聞でくるんでかえってくれば新聞が湿っている
浅漬つくるべ
 
仕事おわってきたく
それなりそれなり
 まあまあ     
 
客先で話がはずむきっかけは何なのかわからんがまあ客が昔のエピソードを思い出すわけですね
現役時代の話とかね
転勤とか
 
公務員は夫婦であればなるべく違う部署に配置するとか
しかし親戚関連が多く集まってしまうとか
 
それでも話をエピソードを語りたいと思う方が語ってくれるのを聴くわけで
なるべく多く語るほうがすっきるだろ
 すっきりするだろう
 
 外に出すってな、オレはこうやってWEBに向かって吐き出しているが
 そうもならない方々もいらっさるであるよ
 
ということではないのか。
 
太鼓も大根も生きているし
 
というわけで寝て、そして起きたらいまは23日のAMの4時台であるすずしいさむい
しかし暗い。
 
この明け方の時間はたぶんとてもいい時間でなにもなにかしなきゃという関係性がないので勝手に頭がうごく
 
まあなにを思ったかといっても他人の考えや他人の趣味、他人の「傾向」へアタッチすることがどのくらい難しいかみたいなことだけんども
 
他人が他人を支配しているのがいわゆる「職場」でありんすが
 
オレがしたいようにすることは許可されていないし
 
程度問題であってやりすぎれば大問題に発展するし
 
まあオレがなにを望んでもオレの望みにすぎないのでサービス業においては「クライアントの望み」がそれ第一優先するんでしょうそれはまだわかるしかしそこにたいして「関わり」をもつというところがどうしてもわからない。昔から分からないしいまも分からない。・
クライアントはこうしたい、しかしクライアントはこれこれこういう思い込みにとらわれているのでそこへたどりつけない。だから横からそっとはいっていってその思い込みについてちょっとこうしてこういう操作をしたらこうなってクライアントは思い込みから嘉保に解放された。めでたし。
 そんなふうになったらどんなにいいか。そうはならないのである。
 
クライアントは「思い込み」ではあるがそれは本人が自分でつくったものであるから自分でつくった塀の中にいるのであるがそれはオレだってオレの塀の中にいるのである、「箱」ともいいますが
そしてそれはなによりも不自由にして安心のもとなのである。不自由と安心は一心同体なのである。
 
理想が実現できなくとも人間のそれぞれ個人はそれぞれの元それぞれの環境でいきていくしかないのではなかろうかオレだってオレ環境でしかいきていけないし。
 
だからたぶんおおくの「生活」に関与しようとする医療福祉関連職員がつきあたる壁とは「ほっといて」系の方々だと思うのである。他人がじぶんの 「生活」についてなにかを「変える」方向で関与してくるなんて事態が起こるとは思ってみなかったしどう対処していいのかわからない。
「こういうアドバイスをきいたので、それを覚えていて、ああ、ならばこうやってみよう」ともし思うのであればそれは彼本人がそう思ったからそうできるのである。
つまり何が外からもたらされるか何の言葉が外からもたらされようとも、それを活用できるできないするしないはすべて本人の脳の問題である。
 
他人の言葉が本人の脳にとどくかどうか。
 とどかないのは他人の責任か。他人の能力不足か。そこにオレは疑念がある。
 誰がそれを裁定できるというのか。
 
 戦中戦後の証言も多い
 食い物関係の記憶はきえない
 くうやくわれずという
 自分がもっとも多く大きい災難を体験してきたのだという
 空腹の記憶
 それがかえって肥満を産んだのだとおもうが
 
 おからだんごをもらった