ゆう(4)他人のことは知らないとも言っていられない

さっき他人のことは知らないと書いてみたが

 

茹で玉子をつくり(電子レンジ8分)

卵3ツナ缶1でやきそばUFOをたべた

しかしこれが満腹100%ではないというのだから

オレは胃が拡張でもしているのか

まあもう寝るから食わないけど

 

で 

 

食って胃がすこしは満腹中枢に働きかけたので

他人のことを思う余裕もできるというものである

 

つまるところ他人の役にたつ(たっていると自分が思うこと)は

それなりに

喜び(あるいは快感)を生むのである

 

いやそれはね

また

別の問題でもあるんだ

 

他者

 

つまるところ誰しもが

病人となり

病めるものとなり

あるいは痛みをかかえ

身体のふちょうを訴え

そうなるのである

 

だからどこでそのようなものと出会ったとて

それらのものを蔑ろにしてはいけないと思うのである

なぜならオレが他人から蔑ろにされたくないからだ

 

いかなる病や痛みの中にあろうとも

 

つまりそのような他者はオレの未来でもあるわけだ

これこそが他人に対する想像力というものではなかろうか

 

これだったらオレも本心から

そうですね

と言える

表面的な正統的な正義ではなくて

オレが望むものとしてそう思うから

 

朝日新聞でやってる新聞小説がまさに

そんな話ではないだろうか

池澤夏樹が書いてるんだけど

死を待つ床にある男が自分の過去を回想するのである

それは

日本が戦争へとつきすすむ中で海軍にあって

天文をまなび船の位置を知るという役目の人

それがキリスト教徒で

しかし海軍の中にあってはそれを隠し

しかし

妹が布教宣教の道にあってゆきずりにであった男とセックスして

懐妊したところまできている

はたして汝姦淫する勿れのおしえと

命は尊いものであるのでそれは産めということばと

あと

あといろいろあるんだろうけど

おまえらのなかでやましきこと罪がひとつもないやつだけが

この売春婦へ石投げていいよ

というジーザスクライストのことばというか

彼の名はなんだったのだろうか

エスキリストなんていうのもなんか変なのだ

あの救世主(メシア)は人間としての名はなんだったのかなあ

仏陀であればゴーダマ・シッダールタなんだと思うんだ

なんだっけ

 

人間は誰しもが罪を犯している(原罪)

 

みたいな話で

人間はみなそれぞれ完全に善良ではありえない

たとえさっき考えた生まれながらの障害をもつ者だったとしても脳内でよからぬことを考えることはできる

介護してくれるかわいい巨乳のおねえさんの乳を想像するとか

そういうことは脳内でできるのだろうか

どうなんだろうか

できるといいねとオレなんかは思うわけだが

 

まあかれこれ

いまの仕事をやって10年はこえて

そのまま今に至るわけだが

この仕事でなければ実際にCPから成人できたクライアントとか

出会わないのである

 

あとたくさんの疾病をかかえた老人とか出会わないのである

 

皆他人でみなそれぞれが一人一人違うし

オレの記憶にも残ってしまうではないか

 

みなさんそれぞれだった

覚えてる

 

覚えてるので