ドラマ「猫」第6話(最終回)

きわめて不思議なドラマで

 

猫といいながら猫の猫らしさなどは

さしみのツマほどさえも存在せず

猫は単なるワキもそのさらに外だった

恋人たちは恋人たちとなりそして

とつぜんの事故によりかたわれは死に

死んでから限定的に幻想の再生を果たし

死ぬ前にいいたかったことなどを

会話し終えてそれから改めて消えた

残念無念なことが死んでからそれが叶うなんて

なんて後悔を回収するアイデアだと思う反面

かえって切なくなりやりきれなくなるのではと

一瞬その6話をみはじめた瞬間に見るのを

やめようかなと思ったけど数日おいてから

やっぱり見るかとみてみてそれはもう

見たほうがいいに決まっているのである

どんなものでも

 

2020はドラマとかフィクションの小説とか

読むとか見るとかのことが再開できたというか

それまで何やってたんだという話だが

ともあれそうで

そうして読むことを

みることを

他人の人生のある姿をみたりして

みるとそれなりに何かを思うのだが

世界は本当に多様で

 

さっきみてたのは

100分で名著のブルデューディスタンクシオン」3回目

世界は多様性に満ち満ちていることを理解するにも

文化的な資本が必要だ

世界はいまここで目にみえているものと耳にきこえているもの

総体である以上にいまみえていないきこえないところにも

存在するしあきらかに世界はそうして動いてそして闘いが

つづいているのだが

そのことを理解するには一定の

一定の「世界がある」ことを知るための段階があるし

そもそも学校なるもので「勉強」よみかきそろばん

を習うためには「座って人の話をきき人が命じたことを

それにしたがって行うという手順に従うだけの操作が

できることが」必要で

そもそもが人の話を聞くことや

座ってしばらくはじっとしていられない子はそれを

理解するところまでとてもたどり着けないだろう

 

そういう症例(脳損傷)もあるのである

 

それでもコミュニケーションは

存在する

 

NHKでALSの人が「死にたい」といって

医師が殺人をした話をやっているがとてもそれはオレは

考えるに重くてみられない

 

男性特権があるだけで贖罪意識をもつべきか否かでさえも考えると

重くなって苦しいというのにな

 

まあ対話する相手もいないので深刻問題にならないのである