映画「心の傷を癒すということ 劇場版」について

刈谷日劇でみてきました

だいたい車でまあやっぱ片道2時間はかかるね

まあ夜ドライブは好きです

自車のカーステの操作方法いまいちわかってなかったが

いじりたおしてやっとちょっとわかってきた

購入して7年目というのに

そうね

 

さて

同名のNHKドラマの再編集版です

そうですね

 

項目にわけて思ったことを

どうしても「俳優がこの演技をしているんだなあ」と思ってしまう

とくに

柄本佑は主人公で男3人兄弟だが

はじめに出てきたときに高校生で

この顔で高校生かいな

という不自然である

最後まで同じ俳優が演じてるから

NHK朝ドラ的な無理があるのは

いなめないそれは

とても

否めないのである

 

在日コリアンであることを

いつ知るのか

それはオレは知らないことばかりだが

親から言われる前にコドモが先に知ってしまう

のかな

どうなのかな

 

なんというか昭和の終わりごろかなあ

神戸の風景(とされるもの)

たぶんもうそこにはないものなんだろう

映画館とか

近過去のものであればあるほど映画で実写は

本当にむつかしい

もちろんこの映画にはスマホも出てこないしね

 

阪神淡路の震災が1995に起こる

当たり前だが実写でガレキのごろごろする震災直後の

映像をつくることはできない

TVニュースの空撮映像はさしこまれた

あとは

セットというかロケで

病院の廊下にあふれる患者たち

とか

ジャズ喫茶の被災して片付けしている風景などが

うつる

一番多いのは避難所となった学校の体育館とか

教室なんだけど

そこはそこに被災者が演技しているのであるが

みな

実際問題として避難所で線香立てて亡き人を

泣いてうううと

偲ぶことはできたんだろうか?

 

一番の中心の課題は精神科医が震災後の

人のこころのケアが

できるのかというか

ケアをするにしても

こころが傷んでいる人が

病院を訪れるわけではなく

医師のほうから働きかけていくしかなくて

じっさい

つらそうでも精神科医師を拒否する描写も

もちろんあるし

苛々しているじじいとか

看護師に命令口調のじじいとか出てきて

 いまでも東北の震災の避難所での人の災害

つまり人と人のいさかいで性的暴力があったとかいまでも

言われておりつまりそれはあったのだ

公式がどうだろうと

そういうことを記憶にのぼらせながらみていた

避難所での様子を再現する演者の人たちが

どういう気分だったのかと思いながら

 

オレもじっさいにリハ職として避難所を

訪れることになったとして

いったいどんなことばをかけるのか

考えずにはいられない

 

 

3人もコドモができるなんて仲良しでいいなあ

なんというか

神社できれいな恰好してとった記念写真が

あって

産まれてくる3人目でてくる前だから家族4人で

 

神社でいい恰好している集合なんてこっちは

みていてええのうとしかおもえない

それはきれいであればあるほど

どうにも処理しきれんなあと思む

とくに安先生みたいな「いい人」が

そういう境遇になって癌でたたかってというときに

家族写真があってよかったねなんてまるで言えないのに

でも家族写真があってよかったじゃんとこっちは

オレは実際そう思っているのである

ちゃんとした家族をつくったんでしょ

しかもコドモは安先生が死んだあともどんどんそだっていくよと

 

じっさい映画のラストシーンは

おおきくなったコドモ3人の後ろ姿をみている母でおわる

背景は神戸ルミナリエである

電飾のはやなかなしかし鎮魂の催しである

あのルミナリエもコロナ禍で大人数があつまることができなくなって

じっさいどうなったのか

世界はどんどん事件がおこり天変地異がおこり変わっていく

どんどん

そうだ

すぐにかわる

 

 

医学的な側面というかどうしても気になるのが3つもあって

ひとつは安先生が癌になって外科的な切除ができない段階なのはいいとしてもそこで代替療法だって???????

それは医師

西洋医学を学習して日本で医師になった人が代替療法だって??????????

と思えてくる

そこまで非科学に頼りたくなるのか?

なるのかもしれないなあ

ふたつめ

入院していて恩師(永野先生)が見舞いにくるのだが

急に安先生が痛みの発作的なものがおこり

そこですることは

「ここか?ここか?」と手を当てることじゃねえだろ

温罨法のつもりか

ぜったいそうじゃなくて麻薬のレスキューとか

看護師コールとかそういうことをすべきだろ

みっつめ

その見舞いにきた永野先生に対して安先生が

「ぼくが患者さんのいろいろなつらかったことや苦しかったことのことばを聴いてそしてそれをぼくの身体の中で癒して・・・

ぼくがいま永野先生につらいことを話したら永野先生に悪いものが・・」

(記憶で書いているので実際の台詞ではありません)

と言うんだが

精神科で傾聴した患者の言葉は

べつに医師の肉体がそれをなんかするんじゃなくて

きいたものからかえせるものを返すんじゃないの?

すくなくとも

受け入れた側が人体に癌をもたらすとしたらおかしくない?

 

と思ったんだがそのあとのさいごのほうで

よりそうこと(ひとりにしない)

が出てくるのでその解釈はあとで修正されるという構造でいいものか

などと考えてしまった

 

なんにしろ

 

なにかしたくてもできないということは苦しみで

震災直後の病院で

安先生が自分は病院の中で入院患者のためにすることがあるとわかっていてもなんか今すぐガレキのまちに飛び出していって生き埋めの人を助けたりしたいのにと言うシーンは

なにもできないことの苦しさを思わせたし

避難所で結局安先生のところに相談にくる「眠れない」女性は避難してくる途中で「助けて」と言う声をきいてしかし自分が助かるのにせいいっぱいで何もできなかったので後悔を持ち越していて耳にその声がいつまでもしているという苦しみをもっていてそれは

それは東日本の津波のところでそういうケースがたくさんうまれた

 

それらはそのときにその人に突然あらわれた出来事で

誰かがそれを仕組んだわけではない

 

世界はあまりにも不自然なまでになにかなんでも突発的に

誰かのもとに何かが起こる

 

これからもたくさんおこる

 

癌になるのはランダムだ

 

わるいかどうかではない

 

しかし寄り添うことだけは誰にでもできる

ほんとうは

できると思う

 

しかしそれでも他人に自分から声を掛けるのは

容易なことではないのだ

 

ないと思う

これはシリアスな問題

 

オレにその声掛けができるのか

 

あとひどい取材のやつとか描かれてたなあ

泣き崩れるコドモを亡くした親にちかよって写真ばんばん撮るやつとかね

取材のやつはほんとうに

いまでも怒ってる人がいっぱいいると思う

人間らしさをなくしてしまう

 

たくさん考えさせられるのは重要な映画

 

宇垣さん推薦はあの人は当事者でもあるからなあ

(水汲みのおもいで)