つまり2

 

理解/理解できない の

境があって

 

理解できれば他人の気持ちも理解できる

のかな?

 

お笑いはなぜ面白いのかをずっと考えているのだが

お笑いが行為(ことばと見た目と音と)

として面白いのか

お笑いはお笑い芸人とは切り離せないのか

お笑いという劇場(またはラジオテレビネット動画)があってはじめて成立しているのか

 お笑いするお笑い芸人と客とのあいだになにか

 相互の

理解はつながっているのかいないのか

客が「面白い」とすればそれが「漫才の成立」だ

NSC講師本多先生は言うのだが

そのときにはたしてそれは

「なんだかわかんないけど面白い」も含まれていて

それは

わかんないけど面白いということは理解が成立しているのか

わかんないからには理解は成立していないのか

 

面白いとなった瞬間にもう理解がスパークしているのか

 

とか考えていたんだが

 

それはおそらくはなにかこう理詰めで考えることの

中にあるとオレは信じている面があって

 

先にあるとすれば理詰めではないということになるんだが

 

じゃあそれは「教えられない」よね

 

漫才は教えられるものだと思うんですよ

それは本多先生の指導がそういうもので

 

それが成立するのであれば人間は相互理解できて

なんというか民主制も実際は可能だということにつながるんだが

 

いっぽうでお笑いのことをまったく「わからない」

「どこが面白いのかわからない」という人もいて

 

わからないなりに笑えてしまうということもあると思うんだが

 

ひょっとして笑うということ自体が

感情や論理の中でも高次のものなのか

複雑ないくつかの要素がからまったもの 

 

とすれば

「世界最高のクイズの一問」の定義が

だいぶ複雑だったこともそれにつながるな

 

 

SSSSグリッドマンをみはじめたけど

まちがこわれて人がたくさん死んだりしたようにみえる

のに1話の最後でなにごともなかったように

なっていたんだよアニメの中でもそういうことされると

えー

って思ってしまうね

どうしてあの女子(りっかちゃん)はPCがそんなに

うまいの?わからんところに

アクセスできるのはどうしてなの????