映画「ドライブ・マイ・カー」について

今日は歯科にいって担々麺くって

そのあと

公園(磐田市 かぶと山公園)あるいてたら

トイレにいきたくなり

公園のトイレにいき

 

それですっきりしたので映画館にいきました

「ドライブ・マイ・カー」である

村上春樹の短編が原作

 

でもかなり改編しているし「シェヘラザード」の内容も

ふくまれている

 

でも基本としてのトーン

村上春樹の短編にあるどうしようもない

暗さとやりきれなさとどうしようもない感情

 

ではないスタイルで映画は

3時間もある長尺の映画は終わるのであった

以下ネタバレあるため空白をあける

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そろそろいいか

 

さて

終わり方のところから

 

えっと

問題はたくさんあるのだが

結果だけいえば主人公家福は

運転手みさき

によって救われる

 

ともいえる

 

あれをオレは「救われた」とみたわけだ

 

なんちゅうかね

母を失った(ある意味ころした)みさきと

妻を失った(ある意味ころした)家福が

そこには共通点がある

あるけど

 

でもその先も生きていく

ので

生きていこうという

なにかを

ゲットしてそれをエネルギーにしないといけないわけだが

 

それはみさきのことば(これは原作にもある)

によって

そういうものか

受け止めることが

やっとできたということになる

 

しかしそれでそこから主人公家福は

「・・・・したかった」ということを列挙して

言葉で語っていくのだが

村上春樹短編だったらそれはぜったいにしないだろうし

みさきをハグするのもぜったいしないと思うの

 

もちろんこの映画はそれだけではなくてそこに至るまでに

いろいろあって

 

柱としては

演技をしていた家福だが演技はできなくなっている

(チエーホフの戯曲について 俳優自身がひっぱりだされてしまう

から

もう演じることはできなくなった

と言っている)

よくよく思い出してみると理屈としては

なにかが抜けているのだる

そこはオレが覚えていないだけだと思う

とにかく

 

基本線は

①演技している時代

妻は生きている

出張でロシアにいくはずが一日ずれて

いっかい家に帰ってくると

妻は知らない男と自宅でセックス(対面座位)している

男の顔はうつらない

 

②妻が死ぬ

それを家福は帰宅して発見してもう死んでいる

 

③2年たって

広島で家福は演劇のオーディションと演出をすることになる

これは

「ワーニャおじさん」で

役者が多言語で語りながら行うもので

 

中には韓国手話で語りを行う俳優の女性がいる

でも彼女は言葉の音声は聞こえるという

話すのが手話になるだけ

 

この女性の表情やふるまいがとても

よい

ともあれ

生きていくしかない

と演劇のせりふを

語る(手で)

語るし

それは全身で話しているのと同じ

 

岡田将生問題

があり

これはまあいいか

 

岡田将生問題を経て

家福は自分が演技がそこではできない

ことを克服しなくてはいけない状況

に至り

みさきに

みさきの故郷を

みせてくれと

いうので

北海道までロングドライブになる

青函フェリーの船の中で

ねむるみさき

二等船室に慣れている様子

(そうか?)

 

北海道は雪で

山崩れで崩壊した自宅のあたりの場所で

みさきは母のことを語るわけだが

線香のかわりに煙草を立てる

 

どうもなんというか

ここまで書いてみたけど

 

わからない

 

ラスト

 

みさきは韓国にいる

(運転してるのはSAABの家福の車(だと思う)に

韓国のナンバープレートをつけている)

 

ひとりでスーパーで買い物をする

マスクをしている

マスクはコロナ時代のアイコンである

 

みさきはSAABに戻ってくる

車では

 

韓国手話の女性の飼っていた犬が

待っている

犬とみさきは車をはしらせて

高速道路をはしる

 

これでおわり

 

わかる?

 

オレにはわからない

 

わかったのは犬とともに車をはしらせるみさきの

表情が

柔らかいこと

だけだ

(みさきと家福は映画の中で途中で

韓国手話の女性とその夫の家で夕食を共にしており

その場でみさきは犬とたわむれる姿が描写されており

その犬が好きだということは前提としてある)

 

 

わからないおわり

 

まあわからなくていいし

あの短編だってそもそもが

オレにはわからない

なにも解決しないし

ただ家福がみさきに

なぜか

プライベートのことを

話してしまう

というだけのことだ

みさきが少々のことを言う

それにより家福は

みさきに話す前と話した後で

なにかが少々変わる

それだけのことなんだと思う

 

 

多言語演劇に台湾の人もいて

 

オレは「優しさ」(イーユン・リー)を思い出した

孤独についての短編である

 

ワーニャ伯父さん

チェーホフの戯曲

 

"絶望に耐えて生きていかなければならない人たちの姿を描き出す劇"

wikipediaにある

 

そういうものか

 

ともあれ

 

わからないなりに3時間を短いなと感じてすごした3時間だったので

これは映画的な充実といえる

オレが

批評がさっぱりできないだけだ

 

そういうことだ