よる

アレクシェーヴィチ「戦争は女の顔をしていない」

まだみてないが2回目の途中

解説の先生が紀貫之土佐日記」との共通点を語る

いっけんとっぴではあるが

貫之は子供を亡くしたところで

かなしみを

つづる

ことをしようと思ったが自分の普段の文書のかきかた

ではそれは表現できない

と思ったときにふと女子供のするかな文章を

書いてみたらどうだろうと思ってやってみたというんだが

つまりそれは何かというと

感情

とか心のこと

を書くときにはいわゆる「女文章」

日本でのことでは漢語をなるべくつかわないような

そういうかきかたが

より

表現ができるとされておる

「戦争は」でも

女性兵士たちは

戦争にいくまえに戦争のことを考えたくなくてハイヒールを買ったことや

銃に摘んだ花をくくりつけて帰ってきたことや

戦争中に同じく兵士だった男との間に恋愛が発生して

子供までできちゃったことなどを語る

それは大文字の戦史では語られないことだ

あとは生理とか怪我して血が流れたこととか

 

いまラジオ朗読の「痴人の愛」が5話おわって6話で

ナオミといっしょに鎌倉いったんだけどエスタブリッシュメントとの

格差にがっかりしてたけど

海で

およぎの練習するところで子供のように

ジタバタうごくナオミであった

谷崎の書く女(野生)の話ことばが

本当に当時の女性の教育のないほうの人が

そんな感じの話方だったのかなあ

とか

思っている