あさ3

しかしそうやって「編集にはキュレーションとか

価値づけの方向をみちびくみたいな機能が」

ということを言い出すと

結局そのものの「価値」は

自分ではあると思っていても

不特定多数の人間つまり他人の目によってしか

それは「現れ」ないのである

 

ということに気づかされてしまう

 

つまりこの人間社会で

他人の中で

なにかを言ったり書いたりすることは

他人の価値判断とか好みとか感情とかに委ねる

ことがどうしても

避けて通れない

ということだ

 

圧倒的な個性やその他の爆発するもの(cf. 芸術は爆発だ と最初に言った人はものすごい価値を持って歴史にのこったのである)

があれば

他人のほうから寄ってくるのであるが

 

だから

 

若林が本当に何回もどこでも言っているそのテレビのスタッフなる

名前をもたない有象無象への

いやだなあ意見

というのがあるのだがその

テレビstaffなる有象無象のやくわりは

編集とはちょっと似ているけど違うところにもあって

それは

なにかこう面白くなる味付け

なるもの

こしらえようとしているところで

笑えとか泣けとかこれ言えとか

いうてくるのである

下賤なほうの人間の好奇心や猜疑心や射幸心やその他の

刺激されうるところを刺激したり

人間の受動的に気持ちよくなるところをピンポイントでさわるような

そういうことをタレントにさせようとするようにしむけてくるのが

テレビstaffで

 

なんでそういう仕事が存在するかというとテレビでそういうことを

すると

商品が売れたり

その番組をみる人が多いとその番組のCMかけてる会社の商品が

うれるからである

(あるいはサービスがつかわれる)

(あるいは企業イメージが向上する)

 

などなど

 

みえない価値というかこころを操るというか

 

そのくらいはオレでもわかる

 

なんだっけ

 

だからこそなんで純文学というものが生き残っているのか

については

「それそういうものを読みたいと思っている層が存在する」

としかいえなくて

それによってなにか他の会社とかが儲かる

わけではない

(かろうじて出版社は儲かる必要があるのでよくデマンドあるものを

選んでのせる)

 

面白いという価値は

もうちょっと下世話な価値(ねだん もとめる人間の数)

計る必要がある

 

あのちゃんが朝の下らない番組でなんか

変な大喜利回答してたのは実は

裏で

お笑い芸人が操っていたからだ

みたいなのをあとでおもしろおかしく

ばらす

ような水曜日のダウンタウンみたいな

人間の鼻つまみたくなるような悪臭のする企画

ばかりをするのもそれがそれこそが

臭くて腐臭がするようなきたなくみにくいものを

見たいを思う人がいるからテレビが視聴率をあつめる

のだけれどどこかで

やりすぎ

になると視聴者なるモブも離れていく

だろう

人間としてどうかしている

とか言うのである

見てるだけのやつのほうがよっぽど人間として

どうかしていて規格からはずれて人間の屑であると思う

 

なんで朝からそんな編集とかテレビスタッフとかそういう

クリエイトするもののそれを広げるまでの中間業者のことを

考えているのか

(それが面白さの受け渡しの中にいて

 役割としてなんか

 邪魔で同時に必要性が

 あるところもあるというこの憎らしい

 かんじがしているからである)

批評ということと面白さと

 その中身を「わかっている」こと

わかっていないと批評なんてのはできないということは

こないだバレエをみていて思って分かった感じがしたけれど