かげきしょうじょ(つづき)

これは本当にたまたまなのだが

そう言うなればすべてが偶々であり

偶然に我々は支配されており

思い付きや衝動的行動などというのものがあるとしても

それはオレ自身の意図や意欲があり

さらに

もっとも重要なものでいえばタイミングというものがあるので

すべてが自由意志ではなく

すべてがランダム生成でさえもないのである

 

 

かげきしょうじょ!

であるが

そもそもがもともとオレが文學とか小説家とかそういうの

に興味をもつところからさかのぼれば

いやそこまでさかのぼるのはやめて

 

精神的にチャレンジングな時期になれば漫画も映画も小説も

フィクション全般が読めなくなって

くるしむわけだが

(それはそうでしょうね 宮古市にいったあたりからがだいぶ)

 

少しずつすこしずつリハビリテーションしていくしかなくて

宮古市から静岡県にうつってきて映画も簡単にみれるようになったし

 

宮古市は本当に映画という環境については最悪といってもよく

映画館はつぶれ

シネマリーンのことだよ

まあときどき上映はいまでもしてるみたいだけど

それでみるなら盛岡市にいくしかなくて

90kmだよクルマをぶっとばしだよ

だからあの4年間はほとんど映画みなかったんじゃないか)

 

そこのあたりから日本でも本格的に配信動画サービスが

隆盛をきわめはじめて

 

静岡県にきて3年くらいで時間もやたらあるし

すると映画もみるようになるし

読書ができなくてもラジオだけは懸命にきいて

アトロクが開始したのは大きくて

やっぱり火曜宇垣総裁の影響は大きくて

なんでかというと読書と映画と演劇で

美人で巨乳(陳謝しますがそういうお題目を

本当にそういうの使うべきではないと思っても

美人という以外に顔が好きであるという言い方だけでは

不十分と思っていて

巨乳もいわんでもいいことだけどやっぱりそれが好きで

好きだったら免罪符になるのかってそれはならないのだけれど)

な総裁が読書でこれがいいとか映画でとか演劇も

アニメだって大好きで

それを堂々と言うのは当たり前だが

それを勧めるというかるちゃーなんちゃら番組のラジオ

はあるいみ毎日3時間もよくやるなと思うが

オレも全部録音しているので

そのうちに

それらの「面白い」ということをどのように

表す(書き記す)かということに興味がわくようになり

あと総裁が好きなものは全部みてみたいという意欲もあり

それで演劇系はいままであまり苦手だったけど

アトロクがやるから総文祭で演劇部門もみてみるようになったし

(あれがコロナ前の最終だったんだけど)

文芸批評についても廣野先生の新書よむようになってたし

批評ということが「面白いについて語り書く考えること」とほとんど

イコールなのではと理解するようになってきたし(それが

「なんで面白いのか = 価値づけ といってもいい」ということが

わかってきたし

あと

宝塚は山里蒼井夫妻も好きだっていうし

オレもともとバイトで東京宝塚劇場のウラにいたし

演技ってなんだろうねと考えると

自分が自分ではないものを演じるということだと思うんだけど

じゃあそれはうまいとかうまくないというときに

何の違いがあるの?って

思うのだった

 

かげきしょうじょはおもしろい

人間すべての人間には背景がある

EDがそれぞれの回のスポットあたるごとに変わったり

さらさというキャラが天才のなにかこう

漫画でできる表現とアニメの表現がまた違っているだろうし

ましていえば

2.5次元舞台だってまたそれは違うだろう

(こないだアトロクで2.5の話をやっててさあ)

 

まったく脳はまだつかいようがあってよかった

さあ11話つづきみるぞ