仮説のつづき4

 

そしてたとえば音楽だけについて

 

「音楽そのものが イイ」

「イイ 音楽を つくることができる」

 

として

 

どのように イイ の か?

 

となったときには問題はいくつかあって

 

・”イイ”のは 質的にどのような要素が イイ のか?

・イイ音楽は誰にとってもイイとわかるものなのか?

 

・その イイ 音楽は誰がきいたのか?一人? 大ぜい?

 

・イイ音楽がイイということを伝える方法はどのような方法手段があるか?

 

などなど

 

イイ

というのはどのくらいどのようにイイのか

誰にとってイイのか

わかんない

ということもあるだろう

 

山下達郎がきのうJFN系の「レコードの日」で

音がいいとはどういうことか

と言う話で12インチのレコードが

素材として音を再生するのにいちばんイイ

と話していたのだがきいている人がピンときていないようすが

寂しいかんじだった

あのグルーブを共有できないなんて

 

おうおうにして音楽のような言語にしにくい分野での話は

そうなりがちなのかもしれない

(かといって小説の良さを言語化するのだって難しい)

言語化というのは共有のことであって

共通の理解をめざすということだから・・・他人へのかけはしみたいな

 

 

音楽がイイとなったとしても

田舎に

ひとりの若いミュージシャンがいてギター1本で

すごくいい弾き語りができるんだけど

いかんせん

流通にのっているわけでもなく

地元のラジオ局がかけるわけでもなく

誰も彼のことを知らない

 

知らないままイイ音楽がそこにあったけどやがて彼は死んだ

 

そういうものがそこに埋もれていると音楽なんかとくに

再生メディアなければ

おわりで

消えていく

 

あったとしてもそれを人口に膾炙して

ひろげて

口コミで

そしてそれを「売る」作業が必要で

そうなるとメディアという謎の組織体がかかわってきて

 

いいものですよ!

書いて叫んで広げて拡散して

いいものがみつかった!と大声で

遠くまで多くの人の耳へと

つたえてきかせてみせて

いかないと爆発的「ヒット」にならないのであるし

 

それには手段が必要だ

 

Youtubeみたいにひとりでできるのもあるけど

 

それを拡散する誰かが必要

なんだろうけど

 

何のために必要かというと

「ひろげる」「売る」ために必要で

 

もしひろげたくもなく売りたくもないのならばそんなことはしなくてもいい

 

すると

 

それのイイ価値は誰にも知られていないものになるのだが

それをもって「イイ」かどうかをどうやって決めることができるのか

 

という話は既に美学哲学のほうでおそらくもう話されて検討されているんだと

思うんだけど(要出典)

 

まああれです

 

みんながこの紙を金であると信じているから金であるように

イイと皆が言うからこれはイイということにも

 

なるのかもしれないし

 

山下達郎はそうじゃないといいそうだけど

 

よいオールディーズはどこがよいのかを

他人にも知らせるには

知識が必要で周辺の音楽いろんな音楽や

その国やその国の文化についての理解があったほうが

よくて

 

なんでも漫画一冊ではそれがイイ漫画なのかどうかもわからないし

イイかどうかはおなじジャンルの中でどのような位置に位置づけられるか

をみなければ価値づけはできない

というのがあれだオレが「批評について」ノエル・キャロルの著作で学んだことなんだけど

そうだよなあ

と思うのだ改めて

 

イイ音楽はどこがイイのか