えっと今日は県立図書館にいって
『群像』2021の6月号をさがして
書庫から出してもらって
読んで
メモをとって
そしてかえってきた
一日仕事である(移動に時間がかかる)
よみたかったのは
『おかしさを見すえて、夢中に生きて : 西加奈子論』
である
これはどこから引っ張るかというと
CiNiiで検索すると出てくる
CiNii 論文 - おかしさを見すえて、夢中に生きて : 西加奈子論
一般文芸誌というのかそれとも文學研究誌というのか
どっから論文とみなされるのか
さあね
まあそれはいいとして
いい批評でした
というのはオレが批評文を書くことを考えてそれを研究したい
と思っているのでそうするために図書館にいって
それを読むことにしたのだ
なんでも読めるわけではなく手元にないものは読めないし
ネットで公開されているものとそうでないものがあるし
しかし図書館というものは
一定限度までは我々の読みたいものを公開している
わざわざオレが日本の古本屋でバックナンバーを購入しなくてもいいのである
こういう図書館の使い方は50以下のときはしたことがなかった
いま51だけどね
そういう書き方で
県立図書館を使うようになったのは
あそこで人生最初の(そして可能性としてはおそらくさいごの)
講演をやったときに
その資料を探していて県立図書館にあるっていうから
かりにいったんだ
なんで講演をやったかというと宮古市で勤めをしたからだよね
(経験:稀少性と価値がある)
あとは宮古市で勤めの特性の中で論文を1本書いたからというのもあるね
なにごとも偶然です
やる気はなかなかわいてこないが
まとまった形にしないと何かをしたという記憶だけでは
よすがにならないのである
形も必要なのである
オレが日記をはてなに書くのも形で残す必要があるからだ
誰にとってかというとオレにとってだけだが
はてなよ無料でありがとう
データでのこしておかないとな・・・
URLとかも消えてるのはできる範囲でWayback Machineとかで補完してる
んだけどおいつかないことがおおいね
話がそれたが
矢野論文はいい文だった
西加奈子論で
「おかしさ」を書いていた
おかしいというのは多義語であるが
分けて扱うという意味で差別ではあるという話だった
小説というメディアは必然的に差別をそこに含む
という話
まあ読んでよ
矢野氏は群像評論新人賞で町田康を論じ
また
『芸能文脈としての町田康 : 「おかしみ」と論理性をめぐって』
であるが
そのへん著作や論文をまとめて検索するのは
国立国会図書館のほうが話がはやくて
詳細検索結果|「矢野//利裕」に一致する資料: 42件中1から15件目|国立国会図書館サーチ
ということになる
なんでも検索
こういうことが好きになっていくのはすべて
「独学大全」のおかげ