おひる うまい 超うまい
マカロニ(約150g)にかけるパスタソース(ミート)とパルメザン
うーん小麦をばりばり食っている感がつよいが
この小麦がまたうまいのでこりゃこりゃ
いいんだよべつに
でも糖尿からの腎臓だけはいやだなあ(つらそう)
まあそこまでなるまえに大腸癌あたりになりそうだなあ
なんでもいいか別に選べないし
資料
朝井リョウインタビュー「正欲」刊行後の(インタビューは速水健朗によるもの)
朝井リョウが語る、小説家としての心境の変化 「不確定な状態が自然なんだと受け入れられた」|Real Sound|リアルサウンド ブック
引用
朝井:題材は【生を選び取るきっかけとは】というところなのですが、価値観の変化に関して言えば、先日『新潮 2021年5月号』で作家の村田沙耶香さんと対談したとき、「自分の意思というものは、本当はないんじゃないか」という話になりました。何かが起こったとき、それに対する反応は自分自身が決めているのか、それとも周りの動きによって生み出されているのか。普段、生活している中でも「これはこうなんですよ」と言われて、「ああ、そうなんだ」と判断するときがありますが、自ら納得しているのか、それとも周囲の空気から納得するに至ったのか、わからなくなるときがあります。そういう実感は自然と小説にも滲み出ていると思います。
引用おわり
これについてのオレの意見
ずっと漫画の批評を書こうと思って精読しているのだがそこで思ったことは
他人の言葉はかならず自分の中にはいってくるし
それによってまた考えるというプロセスがあるわけで
自分ひとりで一人だけの考えというものは結果としてはオリジナル
に見えるかもしれないがそれが生成される中で他人の脳を通って
いないことはありえないのではないか
じゃあ自分の「意思」というときにはどうなのか
考えではなくて意思である
考えた結果としてこうしようという意思が生まれるなら
考えと同じで
かならず他人や環境の影響をうけるんじゃないのかなあ
そのくらいに思ったほうがいいんじゃないかなあ
いやなときは「いやだ」って思うし
思うというか「思うことに決めた」くらいのもんで
それ以前に嫌なら身体が反応するであろう
いやなもの食うと身体が反応して口から吐き出すという
行動になるのと同じなんじゃないのか
この「いやなこと」→「行動」ですが
これこそがあれなんじゃないか
情動の原風景なんじゃないのか
以下はまた引用
古い内界(内臓・平滑筋・皮膚)で起きている生命現象がホメオスタシスから評価され、健全なら「快」、不健全な時に「疲労」「不快」などが生れ、それが感情の核となる。もう一つのより新しい内界は、骨格や随意筋が関わって生体内の状態を評価し、言葉にする役割をもつ。内界と外界とをつなぐと言ってもよい。こうして古い内界から生れた感情を中核として心が生れるというわけである。
引用おわり
出典は
『進化の意外な順序ー感情、意識、創造性と文化の起源』(白揚社) - 著者:アントニオ・ダマシオ 翻訳:高橋 洋 - 中村 桂子による書評 | 好きな書評家、読ませる書評。ALL REVIEWS
です
まあ言葉をつかって考える中での自分と他人と
他人のことばと
他人のことばが自分のからだに入ってきて咀嚼してそれから
っていう
「使ってみるー他人のことばをー」
「使っているうちに自分のことばになる」
というプロセスがね・・・
(やっぱり学習とか発達とかの心理学の方面に
なんか向かっている)
いまセブンでコピーしてきた論文資料が
いっこは広島大の心理学雑誌で
もういっこは京大の教育学なんだけど障害受容の話でやっぱり心の中
のことにつながっていくので心理であるという
心理学は「実験」がベースなのはわかったが
実際問題として「モデルを提示する」という意味では
心をモデル化する(それからたしかめる?)というのは
役に立つことなんじゃないのかね
喪の作業(モーニング・ワーク)とか
死の受容(ジョン・ボウルビィ)とか
なにしろ知りたいのだよ
頭の中の機能としてのこころをさ
そのために昔から小説(おはなし)というものを
口承でそれから書いて読んできたのではないのかね?