よる作業のつづき

んでもって

 

まあユリイカとか現代思想だったら県立図書館にあるから

読みにいくんだけど

漫画は買うか漫画喫茶いくしかないし

しかしBL系は

その趣味のコレクターが知り合いにいない

誰かいないかな^

姉に頼るのもなーわるいしなー

(姉なら知り合いがいそうな雰囲気ってだけ)

 

さて

それでつくづく思ったのは

ネットに上がるような感じの「インタビュー」で

「作品論」や「著者の考えていたこと」や

「こうしたいと思ってたこと」「きっかけ」などを

作者に訊くのはおもしろいけど

 

結局最終的に批評にするのであればそれはもとのテキスト

(この場合は漫画そのもの)にあたるしかないし

それ以外のものを根拠にしてはいけないというルールがあるので

漫画そのものから得られるもの以外は本論に使用すべきではない

(補助ならいいのか?)

と思われるわけで

つまりインタビューに何が書いてあろうがそれはウソだくらいの

姿勢でいかんと殺されるくらいのものじゃないか

とか思うわけですよ

 

そりゃそうだ

 

描かれた「キャラの関係性」についてならばいくらでも

言えると思うけど

そこに何をあてるか

 

ずっと考えてるんだが

たとえばそこに「発達心理」に該当するような事項があって

ここでこのキャラはこのように反発して発言するわけですが

これは「否認」にあたり

人間の成長の中では必然的に踏まえる一段階といえるもので・・・

 

実際の人間の発達の研究をフィクションのキャラのことにあてはめてどうする

 

ってなもんでそれは無意味だと思うんですよ

ですよですよ

ですよ。さん大好き

 

 

つまりあれだ

批評であればそれは本筋として作品が

「ーーーーということを描くことに成功している」

(=価値がある)

というところまでを論述してはじめて一応の形になる

ということでやんしょ

教科書の先生はそのように言っているからそうなんだよ

 

描かれたことはそれこそ「あたりまえのこと」をbeyondして

「みつけにくいこと」や「なかなかそれを通せないこと」や

「くるしいこともあるけれど主張としてそれを通そうとすることは大事」とか

「そのようにしてあることを ”理解” できたことはすごく重要なことで

なかなかそれを自分の中でのみこむなんてことはできないんだよ!」みたいな

 

そういうことじゃないかと思って

 

 

そのことを言うときの支えの枝としてたとえば「喪の作業」とか「受容の段階」とかを言うのはそれこそ支えになっているとは思うのだけれど

 

そうなんじゃないのかねえ(オレがこれまで教科書などで学習したところによればそうだ)

 

これまでたんと漫画が好きで読んできたのはそういう価値あることを漫画ならではの形式で主張してくれたからこそじゃないのか

 

それこそ70~80年代にオレがどうしてはみだしっ子にあれほど入れ込んでいまでも忘れられないのはあの作品にそれこそ強烈な誰も教えてくれなかったような価値が提唱されてたからオレはショックでびっくりしたんじゃないのか