つまり凡なる人であってもなんとか社会で働くことができるようにするための機能が「学校」というものにあって
学校は非人間的な工場ではあるのだが
その一方で「学ぶ」は「まねる」からきているように
人間は他の人間のふるまいをみてそれをまねる
ことで
社会の一員たるふるまいが可能になる
これは程度問題で
いわゆるホームスクールというか
自宅学習が悪いわけではないが
世の中のすべてが自宅学習が可能かというと
そうではなく
世の中を「保つ」ための必要悪としても
学校は必要なのである
で
なにかこう「社会」なるものの中で
なにかをしていることで社会の中での「機能」を
果たしているわけだがこれも程度問題で
それは生まれつきの問題で働くことができない
(いうなれば動くことができないとか知能が足りないとかいろいろありますうまれつきで)
(知能が低いという言い方は問題があるのかもしれないがここで適切な他の言い方がおもいつかない)
(事実として脳損傷や脳性麻痺などによって身体機能だけではなく知的能力の面で足りない(平均からみて)状態で生まれて育つ人が実際いるのでいないことにはできない)
こともあるが
働いていない人の生活に使うお金は社会全体が支えることに
なっている
それは日本国では日本国憲法に書いてある
基本的人権がある
あるんだよ
おりしも強制不妊手術事件が
裁判結審したばかりである
裁判は
(nikkeiはパーマネントアドレスにしてくれるかねえ
念のためマシーンのアレをソレしておくか)
文章引用
平田豊裁判長所感
控訴人は本件優生手術により、憲法が保障する平等権、幸福になる権利を侵害され、子をもうけることのできない身体にされました。しかし、決して、人としての価値が低くなったわけでも、幸福になる権利を失ったわけでもありません。
「優生手術は被害者の幸福の可能性を一方的に奪い去るっものである」等と言われることがありますが、子をもうけることのできない人も個人として尊重され、他の人と平等に、幸福になる権利を有していることは言うまでもありません
優生手術が違憲・違法なものであること、その被害者に多大な精神的・肉体的な損害を与えたことは明確にされなければなりませんが、これに対する憤りのあまり 逆に優生手術の被害者を含む、子をもうけることのできない人たちに対する差別を確認し、または助長うすることとなり、その人たちの心情を傷つけることがあってはならないと考えます。報道等の際にも、十分留意していただきたいと思います。 控訴人には、自らの身体のこと、優生手術をうけたこと、本件訴訟を提起したこと等によって、差別されることなく、これからも幸せに過ごしてもらいたいと願いますが、それを可能とする差別のない社会をつくっていくのは、国はもちろん、社会全体の責任であると考えます。 そのためにも、優生手術から長い年月がたった後に提起された訴えであっても、その間に提訴できなかった事情が認められる以上、国の責任を不問に付すのは相当ではないと考えました。
引用おわり
子ができようとできまいといようといまいと
人間としての価値はなんらかわりはないのである
当たり前のことだがわざわざ言わねばならぬ
そうしないとそうではない考えに至る者がおるからである
真理は真理であることをトートロジー
そのことが
大事
で
まあ学校と社会のことを書いたがオレがそう考えるということを書いたわけだが
凡であろうとなかろうと
うまれて生を享けて
ここにいる以上は社会の一員であることは間違いない
わけで
それを社会の一員として迎えるために学校もあるわけだが
それができる(学校での教育をうける)のなら
うけたらいいし
そうではない(学校はキライも含む)のなら
そうしなくていいと思うし
それでも結果的にいきてることにはかわりなく
昨日はETVで高校生で聾者で
できないし聞こえないし手話しかコミュニケーション手段がないからまるで透明人間になっているような感覚を感じるというインタビューがあってそれは本当に哀しみなどの言葉ではとてもいえないような途絶した孤独感だと思うのであるが
それでオレの何かが変わるかというと変わらないのだが
変わらないけどその一方でオレの人間としての生が
まだもうちょっとあるので
できることをしたらいいじゃないかと思う次第である
よいことをするとは言っていない
よいわるいの判断はオレには無いのである
オレがマシかマシではないかの判断ならします
これらのことは全部オレがいま「アレに申し込みどうしようなー」とつらつら考えておそらくはだいたいアレに申し込むことはだいたい決めたくらいの感じになっていることが背景にあるので
まあおそらく申し込むだろうね
なぜならそれをすることによってその先にすこし
マシ
なものがあるような気がするからさ