さてその
豊田市美術館での企画展示
「サンセット/サンライズ」であるが
面白いものいくらでもあるんだが
まあ覚えている順に書くしかないんだけど
「美しい」ものを
視覚障害のある人にインタビューして帰ってきた答えを
文書にして印字して
その答えの内容を写真にとって
その方々のポートレートとともに
掲示するという作品があったんだす
フランスの人
ソフィ・カル「盲目の人々」1986
で
もちろん「美しい」は目だけによるものではない
ことは知識として知ってはいるわけだが
答えの中に
・人からこれは美しいと聞いた
・彫刻の像の尻の丸みを触ったがとても美しい
・私のパートナーは完全にすべてが美しい
などの答えがあり
で
ふと思ったのが
美しいを知る(あるいは感じる)
ときに自分はどうしてきたかというと
「学習」してきたのは事実で
それは人からきいたり
または美しいとされているものを見たり
そのうちに夕陽の色とか写真にとってみたり
なにを美しいと思うかとか思うようになるわけですが
試行錯誤ですよねそれも
視覚障害のある方は耳から聴いてなにもかもを知るしあとは触って触覚で
知ると思うのだが
体系としての「美」についての学問があるとして
それを耳から聴くという方法で学ぶ
ことはどのくらいのそれは視覚なしで行うことへの対応が行われている
のだろうか?
つまり完全に視覚をもたない教師による美の教育は
行われているのか>?という疑問
同じく
聾の方は視覚があるから書物を読んで学ぶことが
可能であるから視覚芸術を見て楽しむことが
行われていると思うのだがそこには聴者との間には
何の違いがあるか?具体的には教育の中で美について
学んだり話しあったり体験したりすることは
なんらかわらぬ教育が行われている
といえるのか>?現実にいまの日本で?
まあ美の教育自体がなにをしているのかも
そのスタンダードもオレはよくわかっていない
のよ
なんでそれを思ったかというとさっきの「ラブと私のメモリーズ」
が
ね
ものすごくオレに肉体と時間と経済と世間のレッテル貼りと
暗さと哀しみと寂しさと人工的なとってつけと
商業的な服飾デザインの奇形性とざんこくさと
孤独が人の一生を貫くことの残酷な現実までも
思ってしまったんだよ一瞬で
なんだそりゃって話で
それはもう文脈読みすぎだとオレはそこで思ったんだけど
そういう雑多なノイズをふくむ文脈を
感じる
ことって
数多の情報に接してからあとのことだと思うわけです
つまり
他人の
他人はどうしているのか(この世間で)
ということで
配信動画などのあらゆる「情報」に接するときにあるバリア
ハンデキャップ
があることでそういうあまたの数多性が損なわれているときに
感じ方って変わってくるんじゃないか
と思ったのもある
あるいは世間のとくに障害のないやつの感じる哀しみのようなもの
などは障害のあることと比較するとそんなん屁でもねえじゃんと思うのかどうか
とかいま思ったが
これは他人のことへの知らない妄想をベースにしたよくない想像
だなあと
思いました