新聞

土曜だけ新聞を買うことに

それは書評欄なのだが

 

松浦理英子『ヒカリ文集』の書評が朝日にのって

評者は金原ひとみ

 

これで同著作の評を3つあつめた

 

(追記:4つ目でした

手元には3つ(週刊文春/文學界/朝日新聞)あるが

図書館でよんだ「新潮」5月号に掲載された木村朗子さんの評

があった

オレが過去日記にかいてた)

 

ラッキー

 

というか探しているのだがら当然だが

ネットとか駆使すればもっとみつかるのかもしれないが

オレが見つけるのは雑誌や新聞に掲載されたものだけで

つまりそれはネットではない

 

権威主義のようでもあるし

 

あるいは既成の雑誌と新聞についてその編集者の

判定する一定の能力を信用しているともいえる(そう?)

 

うれているものが全て正しいわけではないが

ネットの掲載さるる基準に疑問をもつ’(誰がそれを編集しているのか

そしてそれは公衆にそれを掲示する役割に値するような編集判断基準を

もってるのかどうかという)

 

でもそれって既存の雑誌新聞媒体ではどうなの?

さあ

さあね

 

いずれにせよオレのところまで届いてくれないと

読まないとはじまらないわけだし(評を)

 

そう

 

創作物はそれなりに売るための審議をへて読者一般にまで

到達’(流通)するわけだが

 

評のほうはそうはいかないんだよ

 

オレは評は創作物と思ってるけど

世の中的には評は創作物じゃないとかいうやつがいて

 

だからそんなに価値がないとおもわれて流通もしないんだよ

 

そうそう

 

その話です

 

誰がその価値を決めるんだっていう話で

 

結局ちいさい価値の掲示の積み重ねしかないわけで

 

小説みたいなのは明治ではまだまだ「くだらん職」だったわけでしょ

 

夏目さんがはじめて「職業としてそれだけで食える」ようになることを

っていう話だと思うんだけど

 

それをいえばどのジャンルにもそのような先達がいるわけだが

 

それだとしても

えらい人の余技とか思われてるとよくないなあ

独占しやがって

バカヤロが