こちらあみ子のつづき

もちろんオレには感情があるので

この映画をみていて

こいつきらいとか

こいつどうかしているとか

こいつしんじゃえとか

 

いろいろ思うわけよ

 

そしてオレはこの映画で「こいつは好き」

と思えるやつがひとりもいなかったんだ

 

もちろん救ってくれる人がいないというのは

人間社会のリアリティである

 

オレはずっといろいろ考えてたんだ

たとえばリリィ・シュシュ

学校でいじめがある

教師をはじめそれを解決したり救ってくれたりする人間は誰もいない

その通りだ

 

誰もいない

 

乾いているというのはそういう意味で

世界は絶望に満ちており

泣きわめくようなことさえももうない

ということなのだが

そもそも

あみ子は泣くことも嘆くことも

ない

さっきも書いたがオレはあみ子から何の表情も

よみとれなかった

それはオレからみると「表情つまり感情がない」ということに

なる

観測できないだけで本当はある

あるのかもしれない

しかしそれはオレには関係ない

 

人間が人間になろうとするその成長の過程で

「人間と 人間ではないもの」の区別をつけていく

人間は自分が人間でありこの目の前にいるのもやはり人間で

人間には人間の心がありオレに心があるので

この目の前にいる人間もまた心があるのだろう

学習する

心があるかどうかはつまりあることで悲しみを感じたり

歓びをかんじたりするのが心であるからオレがそれを感じれば

おなじようなことが起きたときにはこの目の前にいる人間も

同じような感情を気持ちをもつのだろう

未来を想像し予測することが

できる

のが「他人の心を知る」ことではなかろうか

 

一方では

まったくそれが

わからない

ことも

あり

たとえば鬱という状態が

パニックという状態が

その原因が

そうなるに至る構造が

なにもわからないし理解できないしおそらくは説明されても

とっかかりさえもわからないだろう

そういう”人間”

生活をともにすることは

人間にはできないのではないか?

とさえ思ってしまうのだ

 

だからオレからみたら”人間”であり

人間ではない

カッコやコーテーションやなにかをつけて保留のワクにいれた状態

じゃないと”人間”って呼べないような

そういう

なにしろ

鼻の骨が折れるほどの積年の怒り感情をぶつけられてもわかんないんだから

という映画である

わからなさは筋金入りであり

それはもうわからない

 

わからなくてもいいとか言ってたオレが恥ずかしい

程度の問題だ