他人に対する姿勢のようなもの

昨日一昨日あたりから

オレが他人に対しての態度や姿勢をどのように

スタンス設けているか思い返しているのだが

 

高校から人間になったと仮定して

高校は友人多かったが

大学もそれなりで

しかしサークル活動に熱心であると同時に

いやさ

なぜそんなにサークル活動に熱心なのか

というかしかしそれは熱心だったのかどうかも

実際のところあれは熱心とはいわないのでは>?

オールドタイプのバンカラ的なものがあったらいいなと思って

いただけでは?

ムツゴロウの青春記のよみすぎでは?

あるいは橋本治の?

学生運動はもうないんだよし?

 

まあそれはいいとして

 

数少ない友人と濃厚に接していたのが大学をほっぽり出てからの話で

それはアルバイト時代なのだが

 

そのあとにモーヲタ時代というのがあってそれはそれでヲタ友は

いましたが

 

実際的には気が付いたら仕事的には淡々としており

 

仕事的には長くできる仕事をしなくてはと生存戦略的に思っていたが

気が付いたら他人と遊ぶことがほとんどなくなっていたわけですよ

 

それは「バイト関連の人間関係はメインの人間関係たりえない」から

ではないのかね?

 

というか別に人間と人間としての付き合いじゃなかったからこそ

気が付いたらソロになっていたみたいなもんではないのかな?

 

それで専門学校にはいったらこれはおそらくかなりソロ

に近いような動き方をしていたがそれでもああいうところは

最終的にみんなでサバイバルしていきのころうぜ

という世界なので助かった(他人への指向が無いやつでも

ちゃんと班学習の仲間として受け入れてもらえる)’(形の上で)

 

そのあとはそこから一般人の考える「社会」の「職場」

がそこにはあったわけだがそのそのような場所での振る舞いが

オレが理解しているはずもなく外れていくわけだが

 

というか田舎の人間関係の文法なんて知るもんか

であったのだが

 

そのころには日本は2008であり

すっかりネット環境がすべてを変えていくのウエーブ

であった

だからオレはネット環境がその長野県の田舎にもあったから

生きていけたわけですね

 

(そのまえは東京でテレビ東京があったから生きていけたわけで)

 

2008~2014をへてすっかり他人と一緒に遊ぶことなどあるわけない

(しない)

になっていたが2014~2018は

遊ぶのはソロで旅行すればいいになっており

(その前から登山とか海もぐるとかなんでも一人でやっていたので

下地は完全だった)

岩手県にもネットは存在した

 

岩手県になってからやっと(遅い)

図書館を活用することがオレの中で

改まり

論文書いてみたり

なんじゃもんじゃ

 

結局他人に対する姿勢とその他生活とその他楽しみと

その他とにかく生存していくためには何か

何かをしていないと(何もしていないと)生きていけない

ということで何かをする

している

してきた

ことの振り返りになったわけだが

 

オレが思うにオタク以外のやつ(を一般人というのかね?)

何かをしていなくては

ということよりも常に他人との生活を

していて

他人がいればなんだかんだ

何もしていなくても

あたかも何かをしているかのように錯覚したまま生きていくことが

できてしまうから

何をしようかと考えることもなく

ただ

他人との間で食事とか掃除とか

子供ができて育てるとか世話するとか

ことで時間は十分に埋め尽くされるから気が付いたら人生がおわっている

のが一般人奴等の人生の大半

なのではないかと思う次第

 

すごい偏見の上に蔑みを含んだ視線だす

 

そうです

 

そういう偏見120%で書いている

 

一方でオレのような人間は他人と関わらないがゆえに

自分がどうするか何をするのかどうやって自分本人を

楽しませるのかを考えて試して考えて試して

これはあまりよくないこれはいいどうなのかどうかしら

の上に

現状ではこのくらいにこれをしたら楽しいあるいは快適

あるいは長くそれを楽しめるようなこと

いくつかできたのでなんとかなっているわけで

そのくらい真剣に考えて行動しないとこの時間を

使うことはできない

 

(これは

・他人とのかかわりで

時間が使われてしまう

のか

・他人とのかかわりこそが人間の為すべきことであるし

こどもが育って人類の存続にも貢献している立派な人生である

のか

・他人との愛着や愛情や友情やともにはぐくむ時間こそが人間の本文である

のか

本分である

のか

・他人とかどうでもよくて本人であるところの自分が

何を考えどう行動するのかが最も重要にきまっている

のか

 

ここに関係してくるのが結局「支配」であり

支配とはおしつけの命令であって

 

おしつけの命令を根拠なく従わせるのがヒエラルキー

そうではなく互いにやりましょうというのが交換で

互いにどうなのかは関係なく均等でなくてもいいから与えたり貰ったり

ランダムにしている相互扶助があるよというのがコミュニズムである

という

かな

ということなんだけど

 

そんなに単純にはわりきれないとかいてあったし

 

他人がいつもいる

きがついたら他人はそこにいるわけで

 

ひとりでやりたいと思ってもそれを貫徹できないことに悩んでみたり

 

あるいは他人がいう事をききたくないとか

他人に向かってなにかを言ってもつたわらないとか

 

あらゆることが他人へのベクトルどうする

 

という方向に収斂

していってしまうのは片腹痛い

 

わけです