またしても三連休の朝の中日であるが
もう登山もしたし雨になるし
のんびりしてもいいんですう
なんというかね
自分がそんなに見下げ果てた存在だったとは
と
愕然とする(たとえば思わず反射的にそう思って
思ってからそのことを
再確認すると
なんてことを!とおもったりして
親に死んでほしいとおもったり
ホームレスがくさくてじゃまだからいなくなってほしいとおもったり
おっさんは全員邪悪なあぶらぎったやつだとして排除したくなったり
ばばあには生存の価値がないとおもったり
まあここにあえて書かない(オレの精神構造の底のほうにかかわるので
文字にもしないようにしている)こともありますがそういうね
そういうやつを
まああれだ
人間に
人間が存在としてそこにあるあることのあるだけで
それ以外の属性はすべてつけたしのどうでもいい差異である
と
わかればそれでいいんだけどなかなかそこまで根源的な
部分は
なかなか日常の(にぶい)意識には
俎上にあがってこないのである
俎上にあがる?
重複してない?
まあそれはドゥルーズについて書いた小泉義之の文章の話なんだが
なんだっけ
そうそう
だからべつに自己嫌悪とかそういうのを
やること自体はたいしたたいした問題ではない
たぶんじゃあそれでどうするのか
そのままそれを持ったままでいくか
そのことをあえて忘れたふりをするのか
変化するのか
すこしはマシになりたいという想いは
どこにでも誰にでもある
ようで
どんなにやけばちに捨て鉢になったとて
生きていたいということと
マシになりたいということ
意義のあることをしたいという気持ち
は
おそらく根底にある
あるからには仕方がない
見下げ果てた感情があることと
マシになりたい気持ちがあることはおそらくは表裏一体で
ひとつのことなんだと
思うわ