いましゅごキャラ!81を見ている。やっぱキャラたちが主役の回はリラックスして見られるなあ。やっぱなあ豊崎愛生ちゃんがこんなにのびのびしてのびるとはしゅごキャラがはじまったときには思いもしなかったのである。いまやもうすぐ天下とりそうなのである。そうでもないか。平野→戸松ときたこの→の先はどこにつながっているのか。(若手イチバンの伸び人材のことね)
愛生ちゃんって若手?
こないだスタチャFESでみたときにはキタエリと手ェつないでらんらんしてたけどねー。
さてさっきは「ノーコメント」で済ませたが、そうも言っていられない。しゅごキャラ!を見ながらそのことについて考える。そのこととは。「非モテの末路」についてである。
たしかにオレの部屋もきたない。そうじあんまりしない。というか滅多にしない。掃除しなくても死なないからである。洗濯物は、乾いたあととりこむのは次の洗濯のときだ。身なりにはかまわない。というか他人からみて「一応ちゃんとしてる格好」の基準がよくわからず、ユニクロでチノパン買うのがせいぜいの努力である。そんなオレが、「末路」について考えろというのか???
末路。それは誰にでも来る。大体、孤独死する前に親を看取らないといけない。親もかなしかろう、子が子を為すことなく孤独をまっとうしそうだとは。
いや。
親の心などがオレにわかるものか。わかると思うこと自体が僭越だ。
と、
そのように考えること自体が「非モテの考え方」だということもいえなくもない。非モテは、理屈をこねくりまわして、なんとか「連なりを絶つ」方向へと話をもっていこうとする。
このイースター3人組、やっぱ「ドロンジョ・トンズラ・ボヤッキー」だよなあ。あの類型、象徴、シンボル、カテゴリー、おそるべき影響力。
親などどうでもいいなどということは、できない。親は大事だ。親が死ぬその死に様を見ることは「自分の死」の学習だ。どのように死にたいか?死ぬそのあり方をつくる作業が生きるうちのやらなきゃいけないことのほとんどか?
それにしても沢城みゆき。
こないだはじめて実物をみたが、やっぱりひとかたの人物だなあ。オレはかなり好きだ。おいかけていきたいタイプの人物だ。
ミキの加藤奈々絵さんも「プリンセスチュチュ」以来気になっている人物だ。
いい人材そろってるなーしゅごキャラ。
「したいことを、できる環境にあるのに、しないのは、『したくないもん』と言って自分を偽っているのだ」と皆が言うのだ。
いったい何の根拠があって「偽っている」などと言うのだろう。
人類のもっている欲望の根幹が全員に共通しているなどと一体誰がそう言ったのだろう。
知らない他人のことを知ったかぶりして論評するな。
いや、うまくいかないことについて、成功といえる成果をだすまであきらめない、のが正しい人類のあり方か。
まあ基本的に他人がなにを言おうとどうでもいいか。
なりたい自分がどんな自分だったかすっかり忘れてしまった(もちろんちゃんと覚えてるよ!)。