クローズ

アップ。現代。マニアの。みなさん。こんばんは。
さて例にもれずオレも今夜もさっさとジムいって帰ってきて半井の天気予報を聴いてからクローズアップ現代に突入したわけだ。美少女で。美少女が。美少女の。 NHKでこれだけ美少女連呼も珍しいんでないかい・
 しかし。
  
 つまるところ「ものめずらしさ」である。
 多分。
 
 と、ここまで書いて、Youtubeでマドンナのライブ動画いろいろ見てみまくっていたら印象がどっかへいってしまった。「Confession」ツアー、かっこええなあ。どんどん年をとるごとにかっこよくなるのがすごい。Drowned World Tour 2001とか見てるとぜんぜん若いように見えてしまう。このときだって相当だ。しかし若いというのはマッチョである。女性であっても。筋肉量が多いし、ビートの刻みも細かい方により快感を感じるはずだ。しかしだんだんと年をとるごとに脂肪が増加しビートもより重く深く響くほうに傾斜していくのが普通である。というのは「筋肉は重い」のだ。脂肪とはたわみである。筋肉は撥ねかえし。
 
 いやマドンナレビューではなく。
 「萌え米」。そうそう。
 
 しかしオレの思う「萌えの効用」は、それぞれのこころの中にしかないと思うのだよ。こころの中だからこそ、落ち着いた状態でどんな妄想もできる。
 たしかに古民家に「美少女」イラストがついてたらそれはそれでええよ。びんちょうタン。そういうことだ。
 
 いや正直、自分が田舎に住んでおると、あんまり「田舎」に興味がもてないのだよ。人民の再生は共生にしかないだろうとは思うが、共生こそが人類最後の課題であって、実際にできることは「熱狂」くらいのものだ。
 
 あ、そうか、「エビータ」やったんだったな。
http://www.youtube.com/v/jbk37ak-9Wg
「Don't cry for me Argentina」であるわ。
 
 ライブで観客を熱狂させることはできる(観客は熱狂することを望んでそこに望んだからだ)
しかし共生を外からforced、できない。そうしたいと内から望む者たちの集合だけが共生を達成できる。
 
 そういうわけで萌え米があっても、その地域の人民がみなで共生することは本当に難しいのだと思うのだよ。産業ならともかく。
 萌えが地域の魅力かね。
 神社で栄えるところとか、どうにも、それは結果としての集客だけみたいな気がしてならない。
 
 観光産業は哀しいものだと昔から看破されている。他人に頼ることはわるいことではないが、他人が来る、その他人を疎んじてなお歓迎しなくてはいけないことは哀しい明らかに。
 なぜ疎んじるのか。他人を迎えなくてはいけない、迎えずとも自足できるだけの豊かさがないからだ。
 
 共生がうまくいけば観光に頼らずとも自足できるのではという夢想。
 
 やっぱライブが基本だな。
 たしかにヲタどもはぜんぜん共生なんかしてないぜ。ただ自分が楽しみたいだけのことだ。