というものだった。
立派なおことばだこと。しかしそうなのだ。できることが考えることだけでそれを続けていていいのか、いいのだ。
日経ビジネスオンラインにはいろんなコラムがあるが、その中でいま岡敦さん(「生きるための古典」)を読んでいた。今回はプラトン「パイドロス」。垂直の言葉を。いつも、つねに、覚えていて。
たしかに哲学は実際の意味で役に立つ、それはある言葉がこころに刻まれて忘れない忘れられないということ。「自分の仕事があり、それをすることが人生の目的」。ここでの仕事とは単純な職業のことではなく「為すべきこと」である。それをしないとまったくすべてが無意味となるような重要な。
このことを言ったのはエピクテトスである。
言葉そのものは忘れてしまった文面であるが内容はこれで間違いない。
エピクテトスの言うことはたいていみんな厳しいことであるがそれは彼が厳しい人生を歩んだからであるーーーと簡単に言ってしまってはいけないのだが、じっさい奴隷として生きるのは苦しいことではなかったか。のちに解放奴隷になったそうだが。
その当時の奴隷たるものがどういうものなのか、知らない。
おそらくは当たる限りの書物にあたることで、どういう奴隷なのか分かるかもしれない。
エピクテトスは、また、「侮辱を感じるのは、感じる心が感じるのである、侮辱を投げつける方に実体があるわけではない」という意味のことばも言った。
つまり。
感情を生むのは「他人の行動」ではなく「他人の行動をうけとめる自分の心」である。
わかっていてもこれはなかなかできない。他人を恨みそねみ妬み殺したいと思い消えてくれと思いてめえなんか交通事故で死んでしまえと呪うものである。呪いは必ずはねかえってくるというけどね。
そのように哲学は役にたつのである、実際オレの役にたっている。
大昔から、他人にたいする負の感情に苦しむものはいたし、それについて考えてしるし語りそれを記述する者がいたのである。
「意志によってもどうしようもないものは放っておけ」というのもある。
だいたい他人や他人の行動などはこの類である。
ということをまた改めて想起したのでよく覚えておきたい。