あー携帯から日記かくもんじゃない。さて。今日の断片のまとめ。
無謬性とは?今日は「涼宮ハルヒの暴走」をよみかえしていた。キョンは、もはや、長門は無謬性の塊ではない、と言っている。宇宙人といえども、それなりに制約をもって生きているのだ。そう、生きている。生命体だから。さて。そういうわけで、「魔法でなんでもできる」とか「魔法で夢がかなう」とか、そういうのが危ない。無謬性から魔法を解放し、もっと現実原則に則ったカタチで適用しないと魔法はつまらなくなる、というのが私の主張。そして、なんとなく最近赤ずきんに感じるのが、まさに無謬性が忍び寄ってきているのではないか?ということだ。私の杞憂であればもちろんうれしい。
ほら、家でPC前に座って書けばそれなりに私が自分で満足する程度には書ける。やっぱ私はキーボードじゃないと書きながら考えて考えたことが書きながらほぼ並行して生まれてくる感じを再現できない。
いつも魔法のことを考えるときに「ネギま!」と「赤ずきん」を比較して考えている。少年漫画誌と土曜朝アニメ少女向けを同じ土俵にのせていいのかは疑問だが。
ネギま!での魔法の扱われかたについては全く危惧するところがない。彼の解決法が「拳法と魔法をともに扱う」ことであり、そこには精神の力が大きく左右するものとして関わってきている。魔法も集中する精神の力であり(イメージ力)、拳法も集中するメンタルトレーニングがすごく重要である。そして彼は修行もしている。苦しい目にもあっている。成長していることが、その成長の裏には何があるかの説明もスムーズに入ってきているので腑に落ちる。
別に少女向けアニメを貶したいわけではないことをわかってほしいのだが、いかんせん赤ずきんの魔法の設定は初めからエリートで、いまや「究極の魔法」まで登場している。使いこなしに未だ問題があるようだが、ともあれ究極は究極だ。その上がないということだ。ああ心配だ。このあとどうすりゃいいのよってことだ。なんとかいい脚本とかが来てくれて私をびっくりさせてくれますように。ああこういう展開なのかあと驚かせてくれますように。贅沢か。