本日したこと。さゆとりーちゃんのロボキッス写真を見てぽわわとなる。ボーノの未来についてまじめに考える。2ちゃんで「田園都市線の殺人ラッシュに解消法はないものか」ってなスレをじっくりよむ。みな、渋谷駅をどうするとか、名古屋地下鉄やJR徳島駅のようにホームのあっちとこっちで停車位置ずらす、とか、玉電復活とか、大井町へむりやり誘導とか、いろいろ言っている。あと港北ニュータウンを6000万くらいで買ってしまった人のなげきみたいなのとかあった。多摩ニュータウンも構成人口の高齢化でゴースト気味である昨今。おそろしい話である。家とか買わず、結婚とかせず、みたいなやつが過半数を超えたような社会というのもまた、そういうの、実現するだろうか。結局は「それぞれ個人がどうしたいか」だけなのである。結果として未来がどうなるかは、自分の思いと、たくさんの他人の思いの集合から、どうにでもかわる。それは民主主義でもあるし、もっとふるい形で言えば世は人につれである。中国があれだけ易姓革命しまくってるのも人が多いからである。日本はそれほどでもないのでまだ革命がすくない(ない)のである。なんという適当な論だ。
しかしね。「世の中は、変わるし、変えうる」と考える派と「世の中は変わらない」派の対決、みたいな記事を読んでいて、そう思うのである。かえることはできるが、「操作としての壊変」ができるかどうかというと、一人では無理である。たくさんなら、可能。しかし、たくさんになってしまうと、「そうしたい」人と、「そうしたい人がたくさんいるからあっちの船にのることにするよ」という、もともとはそんなこと考えもしなかった人が混ざってきてしまって、ピュアさが減るような気がする。
数の問題を無視するわけにはいかん。