こわいのである

何故新百合のイオンシネマかというと新百合のイオンシネマなんて

行ったことないからである(それだけ)

新鮮じゃんね

どうやっていくのかもわかんない

新百合って小田急の国だよなあ

いっそそこから立川でるほうが

早いわね(なんのために)

 

立川がなぜああいういまの状態をもっているのかも

こないだネットで読んですこし知った

しかしあれだけの人数(巨大都市!)がいるまちとして

あれだけの改造(都心部に人間が歩ける場所をつくるー車が入れない場所)

をするのは相当大規模だもんで

 

参考(PDF)

https://senshu-u.repo.nii.ac.jp/record/3463/files/3051_0478_02.pdf

[立川市の商業近代化とまちづくり - 専修大学学術機関リポジトリ]関根孝 著

 

 

のう

 

新横浜ー(横浜線)町田ー(小田急)新百合

が一般ルートのようです

横浜線20分 小田急8分 みたいなね

ふうん

 

立川いくのは

新百合ー小田急で多摩センターーモノレールで立川

がいちばん直線に近い(南武線登戸に出るルートは登戸から立川が29分もかかる)

 

だから多摩地域の南北移動がいかに非効率というか広いというか

時間かかるって話で

 

あのへんのコドモとして育つのはどういう感じなのかって

 

MJOこと舞城王太郎に調布を舞台にした多摩地域の話もあるわけだが

ファミレスよく出てくるようなはなしね

 

関連でいまさっきリンクだけみて

これから中みを読むやつだけどそこに

印象深い一文があったんでメモ

”私は年来、「現代社会の人間同士はコミュニケーションを深入りせず、コミュニケーションしないで済ませられるなら、済ませようとしている」と考え続けてきました。”

引用おわり

出典

取引みたいなコミュニケーションは、誰にとって都合良いのか - シロクマの屑籠

 

なんで

MJOとこの話が関連するのかって

結局「若者気分を中心にしたようなところからなかなか外に出ない

感じの日本人の生き方は都心からすこしはなれた郊外あたりに

その消費文化の中心をおいて生活が人生となる」みたいなことを

考えていたのだオレは

いつもそうだけど

 

そこで必要(生き残るために)なのはこみゅにけーしょん

だと思ってたので「面倒くせえ・・・」とずっと思って

「こみゅにけーしょんなんてそもそも成り立っていねえのに

人間なにやってんだ」とオレはずっと思っていたんですよ

 

だからそんなんやめるかということで

なくしているのですが

 

だからバイトでけっこう大変(他人がそこにいるから)なんですが

そのいっぽうで人間と話がしたくなって出かける(オレの名を知る者の

いる場所へ)こともあるわけですが

 

若者気分といいましたが若者気分なわけです

 

ついったでよんだやつEPで

50過ぎのおっさんじじいがいままで結婚とかしたことないやつが

女性を紹介するよとかいわれたらマジしんけんに若い子(20代とか)を

希望して30代女性とか婆じゃんというのでなにこいつマジあたまいかれてる

と思ったら

思ったんだけどよく考えてみるとこの50代じじいはこれまでひとりで

だれとも深くかかわらずにいきてきたために頭の中が若者気分のままで

年老いているので自分が20代とか中学生とかそのくらいの頭でいるために

30代女性のことを認識としてばばあだと真剣に本人の認識としてはそう

思っているという話だったのでそこでオレは心底ぞっとした

わけです

べつにそのことに誰がどのような感想をもってもいいわけですが

おおくのばあい「恋愛と思ってなかったのに50代じじいだけがそう

思いこんでいてうらぎられたとかいって女をころしてしまう」系の

事件がよくおきる(複数)ので

ねえ

うらぎられたもなにも 相手にされていないだけの話なのにねえ

関係妄想

 

それはいいとしてそういう「若者気分」っておそろしいなというのが1つ

若者の実際はどうなっているのかしらないが汎用の感じで

「消費したりうすいつながりの友達とあったりするのが郊外の場所」

という意味では新百合とか調布とかまさにそうなんですけど

つまりオレの知るフィールドなわけで

 

山手線より東のことはオレはしらん

あそこらへんは知らない土地だ

 

まあいまは亜熱帯静岡県にいるが

 

いまだにあのへん(三多摩とか)を

自分のフィールドだとか真剣に言っている時点でオレの

認識もその同じ50代男性をちっとも笑えないしなんなら脳は同じだくらいです

 

こわいのである

 

 

書いてるとオレの脳の認識のこわいこわい部分って

けっこうどんどん出てくるね

勝手に思うのだが考えかんがえしていると誰でも人間としては

自分と自分のコミュニケーションしていることになるので

怖い部分が出てくるのはあたりまえではないかとも思った

 

それこそMJOの小説とかホンとうにこわい

ような

ふつうのように見えて実は他人をすてたり見殺しにしたり利用したり手段にしたりの人間としては「残酷非道」であるはずなのに誰もがそういうことを

してしまっていること認識冷たさ他人を蹴落とすこと

そういうことなどをしている状態を言葉であからさまにあぶりだすのがMJOの

小説なんじゃないかなと思っている

 

そういうのが福井や調布であぶりだされる

 

シロクマ先生はどうなのかね

家畜化の本はまだ途中だオレは

 

コミュニケーション(他人とのかかわりかた)

について

たぶん精神科医は直面で考えざるをえないだろうし

MJOだって小説家の中でとくに殺人やその他トラブル

若者のコンフリクトとか残酷さを書いてきた人として

そういう意味でシロクマ先生と横においてなにかを比較で考える

のは意味があると思ってみたんだけど

よくかんがえたら「コミュニケーション」という語は

射程がひろくながすぎるので

あまりいい言葉ではない(もっとちいさいスコープの言葉で

考えたい)