アレ

アレってのはspモードのことなんですがよく知らないので、ここまで。
 
 今日のNHKFM、夜のクラシックの時間はヴァイオリンの曲。庄司紗矢香さん。ベートーベン、ヴァイオリンソナタなど。「春」は有名だが、2番を聴いたのははじめてだった。とてもかわいい。
 
 
風呂上がりにこういうのを聴きつつ焼酎など飲んでいるとなにもかもどうでもよくなる。どうしたものだ。これでいいに決まっているがこのまま涅槃へ旅立つわけにもいかない。夕食も食わないといけない。もらいものの野沢菜炒めものがある。これを卵焼きとからめて米のおかずにすればたんぱく質もとれるだろう。
 
 重要なことだが家庭人となって老いていく人たちはなかなか「音楽」を生活の真ん中に近いところには置かないのではないか(サンプル・うちの親)。なぜなら音楽はまったく個人の耳にだけ届くものであって複数人で同じ音楽を堪能するのはライブでもないかぎり不可能であり、家はライブ会場ではないからである。
 tvは、もっとかるいメディアでどうでもいい流し見やながら見ができるので複数人で同時に同じ場所で楽しめたりどうでもよかったりしているが、音楽はそうはいかない。音楽はもっと重要な、聴き手に傾聴を要求するメディアなのである。
 だから好きな曲を好きなように楽しむためには、他人がいてその他人が好きな音楽はオレの音楽とは違う場合には、同じ場所では楽しめないのである。なぜなら音楽は拡散するから。音波として。空気を震わせて。
 これは重要なことであってつまり家の居間というのはどうあがいてもパーソナル空間ではなく公共空間なんである。アカン警察の「アカン嫁」シリーズをみていればわかる。嫁たちはまったく傍若無人な暴君であり、夫たちを蹂躙しすきなように扱い、同じ音楽で同じようにノリノリになれと要求する、これは「個人がたのしむ音楽の拡張」であり、つまり夫は他人でありながら自分との境目のない同一人物であるとして扱っている、人格の溶解と溶け合う融合を要求しているのである。つまりおまえはオレでオレはおまえ。おなじ人格なら同じ音楽で同じようにノリノリになれるはずだ。強制。Forced/インティマシー。
 このように思うのだがどうだろうか。
 音と匂いは本当に無条件で空間に拡散するだけに公共空間にあっては『その場を支配する』の。だ。