映画「大きな家」について

音楽がすてき

アンビエントなところもあるしそうじゃないのもあるが

邪魔にならない

立派な意図をもった編集についた音楽

 

映画「大きな家」をみた
編集
構成によって
この登場人物たちが質問にどう答え
普段の生活を過ごす姿をとらえ
同じ質問にみなそれぞれが答え
季節が動き
ひっしにやっているんだと
伝わるその映像
編集によってこれが可能になったんだと
思った
時間も一様にはすすませないしね
素晴らしい映画

 

内容についてはオレの記憶の中で

 

しかしここから先は

映画比較

最近たてつづけにみたドキュメンタリー3本「どうすればよかったか?」「小学校」「大きな家」

題材こそなにかのテーマに沿っておりこれは特殊であるといえるかもしれないが

統合失調症/小学校/児童養護施設

しかし中身をみればわかるようにこれは「人間の普遍的な部分を浮かび上がらせる映画たち」である

というかすぐれたドキュメンタリーこそが「人間の普遍的な部分」を

捉えるのだと思う

「どうすれば」ではオレは人間が親になったときにはかならずなにか(の過剰な部分を含んだ)の子どもへの想いがあるわけだと観て

「小学校」では子どもはかならずなにかを集団の中でつかむ(個々ではなく)

「大きな家」では子どもはもし親ではないものが育てたとしてもそれはそのこととは関係なく「人間」へと成長していくということだしそのこと自体はおそらく人類が人類になった瞬間から連綿とつづいている真理)(親はなくとも子は育つ)

集団の中で乳母が誰の子とも関係なく赤子に乳を与えるような育ちとそして群れとして生きる中で母系制のような大集団を形成するようなものだって現代のそれとつながっているのではないかみたいなものの見方である

 

つまり親は遺伝子の親としてまず絶対的に存在する(人工授精だったとしても親の遺伝子がなくてはできない)ところからはじまって

人間たるものは他人集団の中で育ってさいごに人間になるのである

集団じゃないところで人間に成ることはできない

他人が必要だ

ここでは親も他人である

自分じゃないものは他人である

家族集団というものをここでは想定していない(家族はたまたま家族を形成して子を育てることもあるがそれは絶対ではないので家族を定型としないほうが考えるに都合がいい)

 

重要なのは家族ではなく「他人」という人間にとっての自分ではない人間だ

たぶんそうだ

 

そう思う

 

そしてないようについてふれないようにしたいんだがどうしてもやはり

他人は家族とはよびたくないというコメントが続く中で

ではどうすれば「安心をえられるこころのもちかた」ができあがるあるいは補強されるのかが最大の普遍的問題なのではないかと思う次第である

)(他人とおなじようなおなじだから大丈夫」のような根拠もクソもない思いこみは粉砕してしまえ)