どっちがいいとか決められない。
 
コードギアスR2完結の余韻がまだまだのこる。なんちゅうかええ最終回だった。なので最初からまた見たくなったので6に行って1話から。冒頭の様々なシーンの中に、折れた東京タワー。
そういえば今日見た薬師寺涼子の怪奇事件簿の最終回も東京タワーが無残に破壊されていた。
象徴は本当によくつかわれる。
病気というのが、言葉や感情にできないような概念の外にあふれたもの、という考え方があり、これはとてもよく理解できることだ。
つまりサインなのである。
徴し。
 
本当に気持ちやこころを外に表すのは難しい。出したいと思う以前の、そもそもそんな気持ちがあるのかどうかというのが自分で分からない段階については、わからない故に出すのも無理だ。しかし、わからないなりに存在するわけで、それはそのままにしておかれない、なにかの変化をもたらす。
アル中の人がアルコールを飲むという行動に出るのは、アルコールがほしいからではなくて、その前に、アルコールを飲むことによって暫定的に満たされるような気持ち(欠落あるいは過剰)があるから、それをどうにかしなくてはいけないので、たまたまアルコールを飲むのである。もし大麻が近くにあったら大麻を吸引するやもしれない。
気持ちを抑えるというのは本当のところでは無理である。気持ちが形として殺人や暴力などの反社会的な行動にあらわれることを押さえることならば、理性の力で可能である。
この理性の力というのが一種象徴化みたいなことをしているのではないか。つまり気持ちの形の置き換えである。
狭い意味で「象徴化」をとらえると、防衛機制としての象徴化が挙げられる。
いまここに書いていることは既に誰かが発言したり語ったりしたことのなぞりであるが、結局私のいまおもっていることは何かというと、
1 アニメって結局気持ちが絵になって動いていることだなあ
2 気持ちを無化するのはぜったいむりだ
という二つである。気持ちは煙のように消えてなくなるということは無い。そもそも煙だって拡散してみえなくなっているだけで粒子としてはそこにあるのではないか。気持ちもまた消えることはなく、ただ表面の意識にのぼってこないだけだ。それが突然あらわれたり浮かんできたりもするし記憶だってそうだ。過去の経験のとらえなおしとかができてしまうのは自分にとって歴史認識の書き直しになる。
自分は辻ヲタだった過去をぜんぜん無駄とか思ってないし。あれ今日ヘキサゴンみてたら里田さんがすごくモテてたなあ。おもしろい時代だ。そしてヘキサゴンはよくつづくよ人気が。かんしんする。